越後長岡の山本五十六記念館と河井継之助記念館を訪問する

長野から上信越道自動車道で黒姫などを通過し上越高田から北陸自動車道日本海に沿って新潟方面へ向かい、新潟中央から磐越自動車道会津若松を経て郡山インターで東北自動車道に入り仙台へ、というルートを走った。

途中地震から一ヶ月の柏崎(原発からの漏水で話題になった)を通ったが、道路が波打っていて50キロの制限速度となっていて、地震の凄さを思った。


また、途中長岡ジャンクションで関越自動車道に入り、長岡で下車し、二つの記念館をみる。


まず、山本五十六記念館。1884年生まれの山本五十六大将は石油や航空機に注目したように時代の流れを見抜いていた。日独伊三国同盟に「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と危険を省みず反対したが、開戦にあたっては真珠湾攻撃を指揮する運命を担う。最後はブーゲンビル島で1943年に戦死。

山本は多くの手紙を書いている。家族や恩師などに送った手紙が多く展示されていたが、見事な筆致である。雄渾な書体は「書は人なり」という言葉を思い出させる。

「日本では出来ない視察旅行をせよ。そのため日々倹約に努めよ。語学は着任後数ヶ月程度で習得せよ」(米国駐在大使館付き武官時代)

「私は河井継之助小千谷の談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした、あの精神をもって使命に従う。軍縮は世界平和、日本の安全のため、必ず成立させねばならぬ」

米内光政大臣・山本五十六次官という名コンビを組んだ上司の米内は「明察果断、大勇猛心があって、恐怖心をもち合わせがない」と山本を評している。

ベンジャミン・フランクリンを尊敬していること、勝負事の処生訓を持っていたり、という一面もあった山本五十六は至誠の人だった。


思いがけず、すぐ近くに最近出来たという河井継之助記念館を訪問する幸運を得た。この記念館がこの長岡に出来たことは知らなかったが、山本五十六記念館の人が教えてくれた。終焉の地・福島県只見町にあった記念館に加えて、生誕の地にもようやく記念館ができた。

河井(1827年--1868年)は越後長岡藩7万4千石の家老となって明治維新前後のこの小藩の運命を握り、武装中立を宣言するが最後は官軍を大いに苦しめる。司馬遼太郎歴史小説「峠」の主人公として馴染みがある快男児である。河井の生誕地であるこの地には良寛が父を訪ねて「聴松庵を訪ねる」という詩を詠んでいる。

河井の断行した禄高改正(平準化)の説明があった。40500石の扶持を25000石に減じて財政を立て直すことにしたが、このため最高で2000石、最低で100石だったものを、最高で500石、最低で100石とした。「百人の禄を減じて、千人の禄を増し、人気(じんき)を調和して力を強くする」とい言われた改革である。

「民は国の本

 吏は民の雇」

「常在戦場」(この言葉は、同郷の山本五十六の心構えにもなっている)

「一忍を以って百勇を支う可く

 一静を以って百動を制す可し」(蘇東ばの父・蘇洵の言葉で河井の座右の銘。五十六はこの言葉を胸に軍縮会議に臨んだ)

「人というものは、出処進退の四文字が大切なものであり、進むと出るは人の推薦がなくてはならないが、退くことは自分で決めるものである」

「戦争はしたくないものだ。せめてもう四・五年も、戦争をせずにすむならば、汽船の二・三隻も買い入れ、家中の二・三男を商人に仕立てようと思う」


河井の協力者であった家老・山本帯刀の名跡を継いだのが山本五十六であり、この二人の因縁を感じさせる。

この長岡という町には小林虎三郎という人物も出ている。河井とは幼馴染みだが、後に長岡藩大参事として三根山藩からの救援米の百表を売却しその代金を国漢学校の整備資金にあてた「米百表」の逸話で名を残している。小泉首相が就任時にこのエピソードを用いて有名になった。この名前は佐久間象山記念館でもみた記憶がある。河井と同じく江戸遊学時代、象山の門弟だった。10月には米百俵まつりが催されるというポスターが貼ってあった。


長岡も駅前は現在はさびれているが、ある種の精神風土を感じさせる町だった。