下関−−−乃木神社(乃木希典)、東行記念館(高杉晋作) (2)

乃木神社(下関)

日露戦争の英雄・乃木大将を祭った神社は全国にある。下関、萩、京都、名古屋、北九州、熊本、仙台、香川、台湾、東京と、縁のある土地には必ず乃木の神社やゆかりの施設がある。
今回訪問したのは、長府藩士として生まれた故郷であり、0歳から16歳までを過ごした下関の長府にある質素な家を従えた乃木神社(大正8年12月竣工)である。
この長府という町は白壁の武家屋敷がのこる町並みが見事だ。

この乃木神社は学問の神様となっているが、子供の頃の母のしつけに従った挿話の数々や学習院の院長として多くの若者の育成に当たったからだろうか。
「幸を招く基は朝晩に先祖に向かひて手をば合せよ」は乃木家の家訓である。

国家・君が代の一番のもととなった古今集の古歌(藤原石位左衛門)「わが君は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」は山のさざれ石、2番の「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜の住む磯とあらわるるまで」は海のさざれ石である。その山と海のさざれ石が並べてあった。さざれ石とは細かい石、小石であり、それが巌(いわお)となった状態をさざれ石と呼んでいる。

神社の脇に「乃木大将御夫妻像」という銅像が建っている。軍服姿の乃木と妻の静子夫人の像である。昭和27年9月13日の乃木神社50年祭に建立されたもので、題字は山口県出身の総理・岸信介だった。

乃木旧邸(長府宮の内町)は6畳、3畳、押入れ、2坪の土間という実に小さな家だった。この家に限らず昔の日本家屋には家具がほとんどない。実にシンプルな生活だったようだ。

この旧邸の傍に宝物殿がある。これが記念館の役割をしている。
乃木は書の人としても有名だ。乃木の書が多く掲げてある。

 夫れ名は実の著(あらわれ)なり。
 実なくして名あるときは竟(つい)に虚名となる。
 虚名にしてこれを後世に伝ふる者は
 臭(けがれ)を子孫に遺すなり。
        (「中朝事実」の一節)

 「智 仁 勇」(乃木将軍謹書)
   智--ばかげた遊びや、いやしいことをせぬよう
     恩義をわきまえ目上の人をたっとぶよう
   仁--よわいものいじめをせぬよう 
     人の上をおもいやるよう
   勇--こぜりあいをせぬよう づるけぬよう 
     こうと信ずることはあくまでもしおうせるよう
     又強きものとてもわけもなく恐れぬよう
   (これは現在、長府豊浦小学校の教育目標となっている)

 「爾霊山」という見事な書がある。203高地の慰霊塔にある書。
   203高地(激戦の地)を「にれいさん」と読めるように日本語に訳して
   書かれた書だが、渾身の書という印象を受けた。
   この高地での激闘で乃木は26歳の勝典中尉と24歳の保典少尉を戦死させている。

  有名な「水師営の会見」でステッセル将軍らとのリラックスした会見の写真。

日露戦争の二人の英雄が一緒に写った写真が目をひいた。陸軍の乃木大将と海軍の東郷元帥である。ロシア陸軍を破った乃木大将、ロシアのバルティック艦隊を粉砕した東郷元帥の二人がリラックスした様子で写真に納まっていた。

 辞世の句
  うつ志世を 神さりましし 大君の みあと志たひて 我はゆくなり

                                                                                                                                        • -

東行庵。

下関市の吉田にある清水山の東行庵は高杉晋作の愛人「うの」が谷梅処として出家した庵である。高杉晋作は自らを東行と号していた。高杉は遺骸を奇兵隊の本拠に近い清水山に埋めて欲しいといったが、山県狂介(有朋)はこの地にあった草庵・無隣庵を梅処に贈った。現在の庵は、伊藤博文山県有朋井上馨らの寄付で建立されたものだ。梅処は長生きして明治42までこの庵で住んだ。


東行記念館(高杉晋作維新関係資料館)
 昭和41年4月14日、高杉晋作百年祭記念事業として併設された。

東行庵の近くに建つ記念館。
高杉の影響を受けた伊藤博文撰文の最初の言葉が階段の壁に高杉の写真とともに大きな垂れ幕として飾ってある。
「動 如 雷電
 発 如 風雨」
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目蓋然として敢えて正視するもの莫(な)し。これ、我が東行高杉君に非ずや。」、この言葉は風雲児高杉晋作(1839年--1867年)の性格や行動を表した言葉であると感じる。高杉は27歳でこの世を去っている。

高杉は、江戸4回、京阪2回、長崎2回、上海1回と旅を重ねて思想を形成していった。その旅では、信州で佐久間象山、福井では横井小楠に会って刺激を受けた。佐久間からは「外国を自分の目で見なければならない」と教えられ、その後上海に行く機会を得ている。

 翼あらば千里の外も飛びめぐり よろずの国を見んとしぞおもう
   
 人は人 吾は吾なり 山の奥に棲みてこそ知れ 世の浮沈

 大閣も天保弘化に生まれなば 何も得せずに死ぬべかりけり

 面白きこともなき世を面白く(晋作)
  住みなすものはこころなりけり(野村望東尼)

 人の花なら赤ふもなろが わしの花ゆえ くろふする(都都逸

 弔むらわる人に入るべき身なりしに 弔むらう人となるぞ はづかし
  高杉は戦争の犠牲者のために招魂場を創設するが、これ以後全国に招魂場ができ、
  東京にできた招魂場が現在の靖国神社である。

高杉晋作は短い一生の間に300篇の漢詩をつくっている。
「東行詩集」を買ったので、楽しみたい。
「西へ行く人を慕いて東行く 我心をば神や知るらん」と1863年に詠み、それ以来、東行という号を使うようになった。西へ行く人とは西行法師のことで、東行くは倒幕を意味している。

吉田松陰松下村塾の双璧とうたわれた高杉晋作久坂玄瑞。高杉は「鼻輪を通さない放れ牛(束縛されない人)」といわれ、久坂は堂々たる政治家であるといわれた。

師の吉田松陰
晋作は俊邁の才を持つが、頑質にわざわいされて、その優れた有識の天分がおおいかくされているとみた松蔭は、久坂玄瑞に対する競争心へと転化させた。
「高杉の識、久坂の才」

高杉は上海時代の「遊清五録」(航海日録・上海ふん留日録・崎陽雑録・外情探索録・内情探索録)など日記を書き綴っている。これも本になっているので入手したい。

晋作は上海で拳銃を二挺買っている。そのうち一挺を下関を訪問した坂本龍馬に贈った。あの龍馬が持っていた拳銃は、高杉の贈り物」だったのだ。

高杉は自分の墓に次のように書いて欲しいと手紙に書いてあったが、発見が遅れかなわなかった。自分の一生をこのように総括したのだろう。


 故奇兵隊開闢総督高杉晋作
 西海一狂生東行墓
 遊撃将軍谷梅之助也

 毛利家恩古臣高杉某嫡子也


記念館を出て、清水山の顕彰碑などを観る。