植村冒険館(植村直己)

k-hisatune2008-07-19

板橋区蓮根の商店街に「植村冒険館」という目立つ横断幕が見える。そこが数々の冒険を成功させた植村直己(1941年ー1984年)の記念館だった。梅村は兵庫県の出身だが板橋区には1984年に43歳で遭難するまで15年間をこの板橋区に住んでいた。思ったよりも立派なビルで、一階は「冒険図書館」で冒険・探検・登山・アウトドアに関する図書が5000冊収容されている。「山と渓谷」、「岳人」など大学で探検部にいた私には懐かしい雑誌が並んでおり充実している。「ウエムラ・スピリット」を長く世に伝えるために1992年に設立された財団法人が母体となった記念館である。
日本エベレスト登頂隊第一次アタック隊委員(29歳)、グリーンランド3000キロの単独犬ゾリ踏破(32歳)、北極圏1万2千キロ単独犬ゾリ旅達成(35歳)、北極点単独犬ゾリ行到達(37歳)、グリーンランド縦断単独犬ゾリ行達成(37歳)、そして世界五大陸最高峰登頂(エベレスト・モンブラン・キリマンジェロ・アコンカグア・マッキンリー)を世界最初に達成するなどその冒険人生は人々の記憶に深く残っている。
植村は意外に小柄である。162センチ、66キロ。ドングリと渾名されたようにずんぐりした体型で、19歳のときの明治大学農学部(山岳部)の写真をみるとやさしい顔立ちの普通の青年だ。
2階の展示室にいたる階段に植村の歴史年表と新聞記事が掲載されている。その中に興味深い朝日新聞の記事(2000.04.30)を見つけた。「この1000年「日本の大冒険・探検家」読者人気投票」という企画である。10位・川口えん海、9位:猿岩石、8位:白瀬のぶ、7位:間宮林蔵、6位:ジョン万次郎、5位:堀江謙一、4位:最上徳内、3位:毛利衛、2位;伊能忠敬、そして1位は梅村直己である。ほかにも野口健は17位、三浦雄一郎は19位、今井通子は12位、和泉雅子は14位、椎名誠は20位と、このランキングは当時の話題の人物が数多く登場しているが、それにしても植村はトップの評価を得ている。この新聞には「快挙連発した普通の人」として梅村を紹介している。植村はインタビューに答えて、「冒険かとか探検家ではなく、放浪家」と自分を定義していた。
偉大な冒険家・梅村直己を記念した「植村冒険賞」が制定されており、ミャンマー最高峰登頂の尾崎隆一、ヨットマンの米子昭男、グレートジャーニー(東アフリカで発生した人類が南米に拡散した歴史を逆コースで踏破し続けている)の関野吉晴、北極海単独徒歩横断や南極大陸徒歩横断の大場満郎などが受賞している。
2階の展示室では、最初に愛用のカメラが置いてある。ニコンF2チタン/ウエムラスペシャル。極限状況で使うカメラでありニコンと植村の双方の工夫が凝らされている。空回り防止、凍傷を避けるためのストラップ金具をはずす、フィルム切断防止のためのカウンターの色への配慮、チタンボディ、特殊耐寒オイル、低温時のシャッター速度の最適化、バネの強化などさまざまの工夫のあとがあり、厳しい条件下の冒険であることを感じさせる。
これだけの冒険家でありながら、「人より怖がりですね。高所恐怖症」と意外な言葉が映像中から聞こえてくる。犬との会話など実に人間味のある言葉と表情だ。日本人としてのエベレスト初登頂時に先輩の相棒に先を譲ろうとした、他の隊員のために石を持って帰った、極限の中で仲間を思いやる人間性を表すエピソードなども「人間植村」を髣髴とさせる。素朴で人懐っこい性格が多くの協力者を生みそれぞれのプロジェクトを成功させたのである。
植村が使ったテント、犬ゾリ用のキャンバスバック(貴重品を入れる)には「いつも貴方といっしょ(公子)」という文字があった。公子は結婚後常に家を留守にした梅村の奥さんである。
カメラマンから展示物を見ている姿の写真を撮られる。今日7月19日から「達成30周年 植村直己、北極点に立つ」という企画展示が始まったということで、その記録だそうだ。
こうい冒険行には億単位の膨大な資金が必要である。梅村は応援者やスポンサーを求めて常に金集めにも奔走しなくてはならなかった。また帰ってくると毎日が借金返済のための講演会の連続だった。こあたりは南極探検の白瀬中尉にも通じる。浮世の中での金集めも含めた大プロジェクト遂行の能力と努力も必要なのである。
植村が生涯の師と仰いだ西堀栄三郎(南極探検隊隊長)は、「君の成功は全く「君が人に好かれる男」であったことのたまものであると感じた」と語っている。葬儀で詩人の草野心平が自作の詩を朗読している。草野心平記念館で友人の植村が冒険行で持って帰ったおみやげの石が展示されていたことを思い出した。植村と草野の組み合わせを意外に思った。植村は詩人に贈られる歴程賞を詩人以外で初めてもらっている。「植村氏は未知の世界の追求、探検において、ポエジーの本質に通じる絶対的精神を示している」が受賞理由だった。植村の行動自身が優れた詩であったという評価だろう。この賞の贈呈は草野心平の推薦だったに違いない。
植村の有名人との対談集「植村直己、挑戦を語る」(文芸春秋)を読んだが、掛け合いが面白い。石原慎太郎は植村の年を聞いて「三十五!ほー、あんがい年齢(とし)だな。」、五木寛之「ほう、植村さん意外に小柄なんだな」、伊丹十三「ずいぶん小さくて、ほっそりしていますネ」、遠藤周作は銀座のレストランに遅れて現れて「ちょっと道に迷いまして」という植村に「北極より銀座のほうが難しいでしょうな」と答えているのが愉快だ。

北海道の帯広に野外学校をつくり移り住む予定だったが、その直前に世を去った植村直己。もう何もすることがなくなったから消えていったのではないかとも思わせる死であった。

いくつかの本を買って読みながら帰ったが、植村の印象に残る言葉を挙げておきたい。
・私の行為を自然への挑戦と言う人もいるが、私は調和する努力をしているのだと思っている。
・命をかけるからにはやはりやりがいのある、言葉を換えれば人のまだやっていない、二番せんじでないことをやり続けたい
・私は精神的に弱いので、逆にそれを人にさらけ出して、どうしてもやらざるを得ない状況に自分を追い込んでゆくのである。
・敢えて動機を探ってみると、意識して行動するというより、やっているうちにこういうふうになってしまったというほうが現実です。