青梅市の二つの記念館を訪問--「雷音」を聞けます

お盆休み初日は、車で奥多摩の青梅に妻と出かけた。お盆休みで、中央高速の国立府中インターから八王子まではずっと混んでいたが、8キロほどと距離が短かかったので助かった。河口湖方面は大渋滞だった。

ナビに登録した目的地は、吉川英治記念館。終戦の前年1944年の3月から1953年8月まで吉川一家が10年間にわたって住んだ当時の西多摩郡吉野村の2千坪の広大な旧居跡が国民作家・吉川英治記念館である。1時間ほど梅園に囲まれた敷地の中や資料展示を見て回る。書斎として使った洋館は外から中を見ることができる。ここで吉川(1892--1962年)は代表作「新・平家物語」を書いた。それは58歳の時である。
恵まれていた吉川家は父の事業の失敗で没落。英治は小学校中退ということになり学校をまともに経験していない。英治の座右の銘が「吾以外皆我師」であるのは、こうした事情によるのだろう。売店で文庫本になっている「新・平家物語」の初めの三巻、そして本人の書いた随筆などを買った。訪問記は少し資料を読みこんでから書きたい。

次は、少し走って御岳(みたけ)にある日本画の巨匠・川合玉堂美術館に到着するが、突然の豪雨に襲われる。「滝のような雨」という表現があるが、まさにそのとおりの雨が降ってきた。先ほどのカヌーの漕ぎ手はどこに避難したのだろうか。美術館の近くにあるレストランで食事を摂ろうとするが、雨宿り組が多く時間がかかりそうなので、日傘をさしながら美術館まで走る。すぐそばを走る多摩川上流の渓谷に水があふれて激流となって流れている。横山大観とともに今なお根強い人気がある川合玉堂(1873--1957年)は、19歳ほど玉堂が年上だが、吉川英治とも親しかったそうだ。枯山水の庭に雨が降り注ぐ。閃光と落雷の轟音が鳴り響く。この景色も玉堂は何度も目にしたのだろうと思いながら、雨に煙る庭と林とその先に見える川の流れを眺める。この玉堂も国民的画家といわれた。この奥多摩には同時期に国民的作家と国民的画家が住んでいたことになる。

遅い昼食は、「いもうとや」で景色を眺めながら摂った。家族づれ、女性の友人同士の山歩き姿などが多い。

帰る途中に梅風呂の看板があったので、入った。青梅というところは、名前の通り梅の木が多い。
梅郷、和菓子処・紅梅苑、梅の湯、、、など車で走っていると、梅という言葉に関係したものがよく目に入る。

青梅(おうめ)の地名の起こりには諸説があるが、最も市民の間で親しまれている説は、青梅・金剛寺の青梅伝説に発している。金剛寺にあるこの梅は、古来「誓いの梅」と称し、平将門が自ら挿した梅であるといわれ、「我願い成るなら栄へ、成らぬなら枯れよ」と誓ったところ、その梅が根付き、梅の実が秋を経ても熟することなく青々したまま残ったところから、この地を「青梅」と呼ぶようになったといわれている。

豪雨の写真と雷音を動画撮影したので、アップ。