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万葉歌碑の旅---玉川碑と、松平定信と渋沢栄一

k-hisatune2008-08-30

先日の朝日新聞で紹介されていた狛江の万葉歌碑を訪ねた。
万葉集の庶民の歌」(短歌新聞社)を10年ほど前に上梓した母が今来ているが、その有名な歌碑を訪ねたいと思っていたところ、偶然新聞記事を見かけたということなので、妻と3人で出かける。母は折に触れて万葉集の歌を記した歌碑を訪ねているので詳しく講義を受けながらの旅となった。
その碑文は多摩川のかつての六郷用水の取水口に近い民家の庭先に立っていた。万葉当時文字を持たなかった日本人が、中国から伝えられたばかりの漢字を使って使っている日本語を何とか表わそうと努力して、音を漢字にあてはめた万葉仮名で書き表わされている。玉川碑。

 多摩側に曝す手作りさらさらに
 何そこの児のここだ愛しき(万葉集巻十四)

  訳:多摩川にさらさらとさらす手づくりの布のように、さらさらにどうしてこの娘がこんなに可愛いのだろう。

この碑は、刻まれた文字が江戸幕府の老中として活躍した松平定信の筆になる。また裏面の陰記は渋沢栄一の撰文と書である。文化文政時代は、行楽が盛んで、多くの文人墨客が多摩川を訪れていた。多摩川の美しさに魅せられていた平井有三(元土浦藩士)が、名勝づくりを発起し松平定信に依頼し、文化2年(1805年)この歌を石に刻みつけ、多摩川堤防の町側に土手築いて建てた。
碑はゆうゆうと流れる多摩川と調和して素晴らしい光景を造り出した。大勢の人がきたが、京都の松野松秀が感銘を受け佐藤信古から拓本を入手する。当時の多摩川は水量が豊富で暴れ川で、文政12年(1829年)の大洪水で堤防が決壊し、玉川碑も流出してしまう。佐藤信古は拓本を松野から譲り受ける。
大正時代に元桑名藩士で松平定信を尊敬していた羽場順承は、玉川碑の拓本を譲り受け、再建への希望を燃やし石碑を求めて土地を掘り返す。狛江村の村長も協力したが見つからなかった。そこで名勝保存に志のある渋沢栄一に再建の協力を依頼することとして大正11年12月に玉川史蹟猶興会を結成する。顧問となった子爵渋沢栄一は、総費用を5000円と見積もり、本人が2500円、財界人から2150円(大倉喜八郎服部金太郎和田豊治、安田善治郎、成瀬正恭、、、)、そして総額は6014円になた。そして名石・小松石に羽場順承の持つ拓本の文字を刻み大正12年8月に大方完成した。秋には除幕式を行う予定だったが、関東大震災で歌碑は倒れ、除幕式は延期された。大正13年(1924年)4月13日の松平定信(楽翁公)の命日に除幕式が行われた。
歌碑の右下には、羽場順承の歌二首も建てられている。
 建碑 玉川のそ名所(ナドコロ)も末遠く伝ふしるしの小松石文
 後楽 願くは千年(チトセ)の後も来り見む百千万(モモヨロズ)の子鶴引ゐて

渋沢栄一が撰文した玉川碑陰記には、この碑のできた由来を述べた後、「そもそも微なことでも、(大事なことは)世に紹介し、幽なことでも(大事なことは)闡明にしていくことが、孔子が著したとも言われる「春秋」(という歴史書)の志であった。」という言葉がある。公益活動に熱心だった渋沢栄一の志がみえる気がする言葉である。

丹沢の山々や多摩丘陵の緑を背景に、ゆうゆうと流れる多摩川の景色も解放感があり、とてもいい。狛江李の上流の多摩川沿いに住んでいることもあり、多摩川という川の素晴らしさを改めて感じる小さな旅となった。