太宰治文学サロンと禅林寺(三鷹市)

k-hisatune2008-09-02

4月だったと思うが、三鷹に「太宰治文学サロン」が誕生したという新聞記事を読んだ。このサロンは今年2008年の没後60年と来年2009年の生誕100年を記念して、三鷹市が、太宰が通った「伊勢元酒店」の跡地のマンションの一階にオープンしたものである。訪ねたところ、駅から数分の便利なところにり、狭い空間だがきれいなつくりで案内してくれる人も知識が豊富で気持ちがいい。
太宰治は1909年生まれで39歳になる直前の1948年に玉川上水で心中をしている。1939年から死までの9年間を三鷹下連雀に住み、「走れメロス」「斜陽」「人間失格」など代表作の大半をこの地で書いた。三鷹から井の頭公園までの間には、太宰以外にも、山本有三三木露風武者小路実篤などの文人が多く住んでいた。最近亡くなった吉村昭は妻の津村節子とともにこの地に住んでいたから、文学にゆかりの土地柄である。
1939年に石原美智子と見合い結婚をした太宰は、9月に東京府北多摩郡三鷹下連雀に転居し、6畳・4畳半・3畳に縁側と風呂場という貸家に家族で住んだ。12坪というから筆名の高さの割にはずいぶんと狭い。この家が終生の住まいとなった。1947年に太宰のもとに原稿を取りにいった編集者は「あたり一面がヒバリのさえずる麦畑だった」と言ったようにこの当時は田舎だった。
太宰の遺体が発見された6月19日は誕生日だった。この日は「桜桃忌」(おうとうき)と名付けられ太宰を偲ぶ会が今も墓のある禅林寺で催されている。この名前は名作「桜桃忌」からとったものである。桜桃とはサクランボのこと。
「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、すこしでも動くと、血が噴き出す。」という言葉が、この本の中にでてくる。生きにくかった太宰の心情が読み取れる言葉である。
年表を見ると、自殺願望が強いことに驚かされる。
20歳、期末試験の前夜カルチモン自殺未遂。21歳、鎌倉小動埼海岸で薬物心中を図り、女は死亡。26才、都新聞の入社試験に失敗し首つり自殺未遂。28歳、妻初代の過去に悩み谷川温泉で心中未遂。4回の自殺未遂を経て、ようやく5回目に本望を遂げたのだ。何と生きにくい人だろう。

1948年。1月に喀血。3月頃から山崎富栄が付き添い栄養剤を注射しながら「人間失格」を執筆。「新潮」紙上で志賀直哉らを痛烈に批判。5月、「桜桃」を発表。6月から「人間失格」を「展望」に連載。6月13日夜半、「グッド・バイ」(未完の絶筆)の草稿、遺書数通を机辺に残し、山崎富栄とともに玉川上水に身を投じる。19日に「二人の遺体が発見される。
遺品の「火鉢」が展示されていた。この火鉢は師の井伏鱒二の自宅にしばらく置かれていたものであるが、「琴の記」という井伏の小説の中にこの火鉢のことがでてくる。
太宰は38歳で亡くなるのだが、その短い生涯に140冊の小説を書いている多作な作家である。
このサロンは三鷹市が2010年の市制施行60周年までの3年間にわたる太宰治顕彰事業「太宰が生きたまち・三鷹」の中心となる施設であるが、サロン内に置いてある三鷹発見マガジン「みたかのみかた」には、「太宰の足跡をたどる定例ガイド」という2時間半のミニツアー(毎月第四日曜日)、「話のプロによる太宰作品の朗読と太宰ゆかりの場所の案内」、「太宰を読む百夜百冊」などの行事が紹介されていた。

その足で、禅林寺に向かう。大きな銀杏の木の傍らに「森林太郎 言 加古鶴所 書」と書かれた森乗ス外の有名な遺書がが刻まれた石碑がある。「森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラス」とある。墓地に入ると「森林太郎墓」とのみ記した大きなごつい墓石があった。字は森のような、林のような字である。その反対側の斜めの位置の津島家(太宰の本名は津島修治)の墓碑の隣に「太宰治」とのみ記した小ぶりの石がつつましく建っていた。墓という文字はない。
「この墓地は清潔で、乗ス外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と書いたとおりになった。この二人の文豪の墓には花が飾ってあった。乗ス外の墓には、紫色のトルコ桔梗、紅いバラ、赤い鶏頭(ケイトウ)、紫の竜胆(リンドウ)、そして太宰の墓には、吾亦紅(ワレモコウ)、菊、竜胆、向日葵(ひまわり)の花だった。乗ス外は本名の墓であり、太宰は筆名の墓である。「太宰治」とのみ記した墓には様々な理由があるのではないかと感じた。