「切羽へ」(きりは)--井上荒野の直木賞作品

切羽へ

切羽へ

何気ない退屈な日常の中に潜む危険な兆候の拡大と消滅、破滅と継続の狭い谷間、を描いた作品。

今年の直木賞を受賞した井上荒野の「切羽」を読んだ。切羽(きりは)とはトンネルを掘っていく一番先のことで、トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまう。しかし掘り続けている間は、いつも一番先は切羽である。「切羽(せっぱ)つまる」という言葉は、その先端が進んでいかない状態を指しているのだろう。

九州弁が飛び交うある南の小さな島で夫とともに暮らす主人公は、島で育ち東京に出るが、同じく島の出身である夫と一緒に結婚して戻ってきて、今は養護教諭として小学校で働いている。同僚の女性月江、近所の老婆しずかさん、そして本土から赴任してきた若い男性教諭石和、小さな島の中でそれぞれが切羽を生きている。夫と主人公の日常も安定しているようで、ちょっとしたことでいつでも壊れる可能性を孕んでいるから、この夫婦も切羽を何とか進んでいるのだ。夫のすべとてを知っているが、でもこの人は誰だろうと思う瞬間がある。

際どい不倫を続けていて派手な性格の月江は平和にみえる妻の座にいる主人公に「あなたって、妖怪みたいね」という。「そうだ、自分も妖怪なのかもしれない」と主人公はあるとき思うのかもしれない。
石和も主人公の気持ちを不安定にさせるミシルシだ。ミシルシは、この島で正しく生きているという神託みたいなものと表現されている。ひとつの行動、ひとつの言葉、ひとつの表情、それによって心を騒がせられる。しかし、それは「正しく」生きていることの証明に過ぎないということだろう。

この何もない島には何でもある、と主人公が感じるのも、うなずける気がする。私たちは社会や人間関係の中で暮らしており、それぞれが互いに影響を受け合いながら、感情の小さなさざ波を立て続けている。
この小説は、読んでいるときはその意味はあまりわからなかったが、読み終えて時間を置いてみると自分の日常の中にも切羽を感じしてしまう。

あやうい切羽の先も、最終章で、夫婦の子供が生まれるという新たな展開に中に溶けてなくなってしまう。最後の「植えそこないの球根がひとつあったとよ」」と主人公が夫に答える場面でこの小説は終わっているのは示唆的である。球根は植えなかったし、育たなかったのだ。そしてまた主人公が新たな形の切羽を生きていくことになることを予感させる。

読み終えたのは少し前だが、すぐにはこの小説の印象や感想は書けなかった。時間が経つにつれてゆっくりと静かに小さな共感が心に中に広がってきた。寝起きに頭の中に書き出しの文章が浮かんだので、ようやく書くことにした。

人生は切羽の連続である。