平林たい子記念館---「私は生きる」

k-hisatune2008-09-15

瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」で、女流文学者のトップとして女大親分のように描かれていた平林たい子(1905−1972年)の記念館が諏訪にある。寂聴は、女流文学者の宴会で阿波踊りをやりなさいと言われて、踊ったときの様子を面白く書いている。

正面から記念館を見ると看板が気になった。「平林たい子記念かん」と、最後の館が、平仮名になっている。この記念館は本人の「郷里(出生地の中洲福島区)のために役立つことをしたい」という遺志と1600万円の寄付により建立されたものである。「地元の特徴のある建材を使った、出来るだけ質素なものを」とういく希望に沿って、屋根は諏訪特産の鉄平石貼りにするなどの工夫がなされている。また、高床式として、展示室には使っていた居間の建具を使って再現し、遺品を展示している。
この記念館は日曜日以外は閉っていていて、予約をすると管理している人が開けてくれるというシステムになっている。そういうことを知らずに知らずに行ったのだが、電話をするとすぐに現れて中を見せてくれた。「かん」の質問には答えられなかった。記念館では、顕彰している人物に惚れこんでよく勉強している人と、単なる管理人と二通りの人がいる。私たちは長く熱心にメモをとりながら、そして質問もするので、迷惑だっただろう。

平林たい子は、女流文学会会長をつとめている女傑だが、一生を眺めるとすさまじいエネルギーと思い切りのいい強烈な言動に驚く。
「既婚の婦人は既に消費社会に入った商品であり、未婚の婦人は未だ流通過程にある商品である。」(「男性罵倒録」)

「夢のみること
 のできない人
 君は生きる
 資格がない」」

「私は生きる」(好んで使った言葉。記念館の正面に記念碑があり、たい子にふさわしい言葉として丹羽文雄を選んだこのこの言葉が刻んである)

父が上京するたい子に言った言葉が残っていた。「女賊になるにしても一流の女賊になれ」。たい子の人生をたどってみると、その教えの通りに生きたという気がしてくる。
諏訪高女に首席入学するが、卒業式の日に上京。アナキスト山本虎三と同棲。19歳、林芙美子と知り合う。22歳、小堀甚二と結婚。プロレタリア作家として世に出る。42歳、「こういう女」で第一回女流文学賞。47歳、ニース世界ペン大会出席。52歳、女流文学者会会長、55歳、民社党党友。57歳、韓国ペンクラブ出席。59歳、オスロ国際ペン大会日本代表。62歳、中央教育審議会委員。63歳、「秘密」で第7回女流文学賞。64歳、評伝「林芙美子」。65歳、ソウル国際ペン大会日本代表。67歳、評伝「宮本百合子」。
凄まじい人生であったというほかはない。

「わが母がわれを
 生ましし齢(よわい)は来つ
 さずけたまひし
 苦を苦しまむ」

たい子が亡くなってから仲間の丹羽文雄がトップの財団法人平林たい子文学会が「平林たい子文学賞」を設ける。「文学に貢献し、努力しながらも社会的経済的に報われない人を援護する」という遺志と8000万円の基金をもとにつくられた賞である。小説と評論とそれぞれ2名が選ばれるが、平成9年の第25回で終わっている。中上健二、村上龍福田和也村松剛石原慎太郎などが受賞している。

追悼文集が展示されていて、追悼文を寄せた作家たちの名前が並んでいるが、交友の広さがわかる。有吉佐和子、古屋信子、宇野千代河野多恵子曽野綾子瀬戸内晴美(「平林さんとお墓」)、円地文子、市川房江、神近市子、林房雄臼井吉見今東光、山川菊枝、藤原てい、、。

平林たい子は、ペラとよばれる200字原稿用紙を使っていた。

「自伝的交遊録。実感的作家論」などの著書もあり、人物論にも定評があったが、最晩年には二人のライバルの評伝を書いている。一人は貧乏時代を一緒に過ごした林芙美子で、「晩年をかたる適任者ではないが、若い頃のことは、よく知っている方であろう」といって書いたが、芙美子の心の内側bに遠慮なく達って書いたため、生き生きと迫力に富む評伝になっているそうだ。

もう一人は、たい子生涯の最大のライバルであった宮本百合子の評伝である。この評伝を書き終えた年に、67歳で逝去する。

たい子の蔵書4000冊余が諏訪市図書館に寄贈され、「平林記念文庫」として市民が接しているという。

留置所での凄絶な闘病生活の有様を、マグマが噴出するような勢いで書きつけた「こういう女」(講談社文芸文庫)を読むことにする。
(16日読了)