原田泰冶美術館−−郷愁を作品化した、鳥の目と虫の目を持つ素朴画家

k-hisatune2008-09-19

今日は、大手町、赤坂、大学と移動しながら大学関係の仕事をこなした。
今週は、HP(http://www.hisatune.net)への来訪者の一日平均が、初めて1000を超えた。
今週到着。
  同人誌「邪馬台」秋号。--------昭和天皇記念館
  知研フォーラム302号。---「表現の技術、文章を使うか、図解を使うか」http://tiken.org/

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原田泰冶美術館。

諏訪湖のほとりに建つ優雅な原田泰冶美術館。原田泰冶は1940年生まれだからまだ60代。絵描きは90代、80代まで活躍した人は多く、総じて長生きだから、まだ発展途上のはずだが、すでに10年前の1998年に本人が住んでいる故郷の一角にこの美術館がオープンしている。ということは50代のうちに自らの名前を冠した美術館が完成したという実に幸運な人である。そういう風に
思ったが、実は原田泰冶は、1歳で小児麻痺にかかり、両親の苦労と本人の努力もあって、悪い足を引きづりながら歩けるようになり、日本全国を絵の取材旅行に歩き回って、素晴らしい絵を描き続けている人物である。何が幸福で、何が不幸であるかは、わからない。

「原田泰冶が描く 日本全国47都道府県127作品展」がちょうど開催中だった。これは、1982年から2年半にわたり朝日新聞に「原田泰治の世界---鳥の目、虫の目 日本の旅127点」というタイトルで連載された作品を掲載順に展示したものである。北海道の稚内から沖縄の竹富島までの各県数か所を選んで、昔ながらの日本の懐かしい風景を描いた作品群は、胸を打つ。
私が10年ほど住んだ宮城県では、白石市弥次郎(こけしの発祥地の一つ)のこけし、出身の大分県では、竹田市の姫だるま、日田市の唐臼が題材だった。大学時代を過ごした福岡県は、柳川のドンコ舟だった。それぞれの絵に18字X33行の文章を添えるという趣向であり、ゆれる列車の中や飛行機の中で文章を書いた。まだ40代の若さだったからできたのだろうとは本人の弁である。

この画家は「取材」という言葉をよく使っている。「時間をかけ、早い取材ではなく、ゆっくり足元を見つめる気持で探すのが一番いい方法だ。」「各駅停車の電車を乗り継ぎ、小さな集落にたどりつく。そうすると今まで気づかず見えなかった風景に出会える。」とこの企画展にあたってのあいさつの中で原田が述べている。ビデオを見たが、カメラ(ニコン)で風景や人をしょちゅうおさめている。シスタントの肩を借りて杖をついて腰をひねって歩く。メモのようにカメラを使っているように感じた。取材のテーマが決まると細かな部分まで徹底的にカメラにおさめる、これが原田の取材方法である。その写真がのちの優れた緻密な作品を生んでゆく。

一つ一つの絵はち密に描かれているが、原田泰冶は現在までで600点以上の作品を描いてきた。原田の描く絵を若いころから評価し、励ましてくれた椋鳩十(むくはとじゅう)は、ビデオの中で郷愁を感じる、魂をゆる動かされると述べていた。
また、小児麻痺であった原田は、遊ぶかわりに風景を観察する機会が多かった。故郷の信州で四季の移り変わり、高台からみた風景によって「鳥の目」を得、自然を眺める中から「虫の目」をいもらったと述べている。原田の場合は、障害が逆に健常者が見えないものを見る力を与えたというっことだろうか。世の中は不思議なものだ。

原田泰冶は、海外にも足を頻繁にのばしている。「素朴画家」を訪ねるユーゴの旅で「ザグレブの昼下がり」という作品を描いた。2年にわたるアメリカ巡回展、無二の親友さだまさしと遊んだハワイではジャカランダの丘、農民画家との交流を行った北京・上海の旅、茶畑の杭州

原田は人懐っこい性格で様々のハンディを軽々と克服していくのだが、その途中で多くの知己を得ていく。この美術館の名誉館長でもあるさだまさし、グラフィックデザイナーの福田繁雄(デザイン館は三ノ戸にあった)、「つき抜けたエネルギーとイマジネーション」と評した筑紫哲也など、、。

「泰治が歩く−−−原田泰冶の物語」という父親原田武雄が書いた講談社文庫を読んだ。小児麻痺との親子の戦いが描かれていて心を打つ。家族の愛、絆、夫婦の物語、を感じる優れた本である。明治生まれの男の考え、行動、生活、親としての愛情などが十ニ分に書かれていて感銘を受ける。