島木赤彦(1876−1926年)という比較的地味な歌人については、知識は乏しい。諏訪湖に臨む地に諏訪湖博物館と並置されて島木赤彦記念館が建っている。平成5年に開館したが、設計者は伊東豊雄である。「湖面に沿って緩やかに湾曲する細長い平面を持ち、湖上からの姿は大きな船を逆さまにしたように見えるかもしれない。曲面を多用して軽快で優雅な空間を作り出そうとした結果である」」と設計を語っている。この伊東豊雄は、仙台のメディアテークの設計者でもあり、優れた作品を作り続ける建築家だ。
日本の短歌の本流の一つ「アララギ」の編集に生涯をかけたアララギ派歌人だが、長く信州の教育の大きな影響を与えた教育者であり、そして「万葉集」をライフワークとした優れた研究者であり、また百篇に及ぶ童謡を書いた詩人でもある、という人生を送っている。亡くなる50歳までの仕事である。
県の尋常師範学校を卒業し、教育者として出発した赤彦は33歳で尋常高等小学校の校長、36歳、諏訪郡視学と順調に仕事をする。一方で31歳で南信日日新聞、長野新聞の歌壇の選者にも選ばれているように、歌でっも知られていた。雑誌「アララギ」を7歳年上の伊藤左千夫(1868年生まれ)と創始したが、左千夫の死去で「アララギ」が存亡の危機に落ち入ったとき、郡視学という要職を投げうって上京する。それ以降活発に活動を開始する。
39歳、第二歌集「切火」。40歳、アララギを1000部にする(赤彦と同郷の岩波茂雄の岩波書店が「アララギ」の発行を引き受けてくれた)。41歳、信濃教育会「信濃教育」編集主任。44歳、第三歌集「氷魚」、童謡を作り始める。45歳、斎藤茂吉と交流。46歳、「赤彦童謡集」、「万葉集燈」。47歳、「万葉集僻案抄」、「第二赤彦童謡集」。48歳、第四歌集「太虚集」。上京してほんの10年余であるが、雑誌編集の責任者という実務と併行して創作に余念のない姿を感じる。長く生きたら歌史にもっと大きな重みをもって存在していただろう。
教育実践者としては、作文の言文一致や写生主義を図画、つづりかた教育にいれる。理科では、継続観察や植物、鉱物の標本採集や登山など、形式的な教育から創造的教育への流れをつくっている。写真をみると、本籍は歌人というより、信念固き教育者という風貌である。
赤彦は、柿人、柿の村人などの歌名を使っていたし、住居は「柿蔭山房」とも称していた。いずれも柿の赤が好きだったことからつけた名前である。そして37歳から赤彦という名前で通す。
近代短歌の歴史は、正岡子規の根岸短歌会から始まるが、馬酔木(あしび)によった伊藤左千夫をその流れを引き継ぎ、アララギを舞台に、斎藤茂吉、土屋文明、中村憲吉、石原純、釈沼空などの多彩な歌人が出て、この派が重きをなしていく。その中心にいたのが島木赤彦だった。アララギは、ブナ科の常緑樹・イチイの別名である。
赤彦は歌論も活発に論じ、「歌の境地は山、川であり、材料は雲・樹・鳥であるが、現れる所は、作者心霊の機微である」と説明している。これはわかりやすい。
後に書簡類を整理した矢崎孟伯氏によれば、書簡数が非常に多く一千通に近い。交友人関係がひろかったことを示している。あげられた名前は、徳富蘇峰、森林太郎(鴎外)、阿部次郎、佐々木信綱、岩波茂雄、小宮豊隆、田辺元、安部能成、菊池寛、西田幾太郎、倉田百三、金田一京助、与謝野寛、、、、。
山国信州人の律義さと教育者としての誠実さをもって、几帳面に多くの人に接した人生だった。
あれあとの光明るきこの沢の
底の道行く車見やる
色つきて寂しく
もあるか火の山の
すでに輝く
からまつはやし
湖の氷は解けて猶寒し
三日月の影波に
うつろふ
「良寛さま」という童謡
山を下った良寛様は
村の子どもとまりついていたが
山に帰った良寛さまは
寺に一人で寂しかろ
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優れた教育者であった島木赤彦は、郷里出身の弟子も育てている。赤彦記念館で知ったので、中やま道下諏訪宿和田宿にある今井邦子文学館(中山道茶屋「松屋」)をその足で訪ねる。今井邦子(1890年ー1948年)は、美貌の歌人である。2階が、KUNIKO MUSEUMとなっている。
13歳の時の歌。
このさきは如何に行くらん
初旅の
人里もなき夕ぐれの道
19歳で家出。後に中央新聞記者の今井邦彦と結婚。大正2年島木赤彦と会い、指導を受ける。昭和11年、「明日香」を創始。創刊号で「女の世界を女がもっと掘り下げなければならない」と決意を語っている。
歌作のほか、随筆、選歌、万葉集などの古典研究、樋口一葉の研究、婦人参政権運動にもかかわった。
秋の野路夕日を逐(お)ひついづくまで行く我身なるらし
色あさき水木の花の匂ひいづる春もさつきとなりじけるかも
又明日と吾子の声する垣根道母にさびしき夕べなりけり
をとめ我比血汐もて
涙もて 思ふままもて
歌はんものを