「愛は私の一切である」---忘れられた巨人・賀川豊彦

k-hisatune2009-03-07

京王線上北沢駅から徒歩数分のところにある賀川豊彦記念松沢資料館を訪問する。

キリスト教の幼稚園の二階にある資料館は、中央の空間をめぐる四角の回廊になっていて、賀川の一生が追える形になっている。名前だけは知っているが、詳しく知らなかったこの人の事績を眺めながら歩き、最後のコーナーで本を買おうとしていたとき、この資料館で重要な仕事をしていると思しき人物が、私に一枚のパンフレットをくれた。
「この人は、巨人ですね」と問いかけると、「そうです。忘れられた巨人です」というこたえが返ってきた。

あらゆるものに興味と関心を持って、目についたところの改革に乗り出す直線的な行動力。ひとことでこの人の広大で膨大な仕事を何と表現したらいいのか。まさに怒涛の行動力である。

残っているビデオ映像を見ていると、常に笑顔で会う人と懐かしそうに握手をする。その握手は強く上下に振り続けるというやり方だ。相手も賀川と会えて本当にうれしそうな笑顔をみせる。握手攻めで多くの人に慕われていたことがよくわかる。人柄のよさそうな、笑顔をが素敵な人である。この階下の松沢幼稚園の初代園長という肩書も残っていたように、子供と遊ぶ賀川の姿も気持が暖かくなる。

賀川豊彦(1888-1960年)は、最初に観たビデオによると、日本生活協同組合の初代理事長だった。
神戸のスラム街で貧しい人々を救う活動から出発した賀川は、友愛会労働組合運動、農民運動、を経て、大阪で協働組合運動に入る。有限責任購買組合、神戸消費組合、灘購買組合。
1923年の関東大震災の救援活動では、セツルメントから江東消費組合を結成、1935年にはニューディールの一環としての協働組合活動の拡大のためにヨーロッパ、アメリカ、アジアを歴訪している。
戦後1945年には、日本協働組合同盟を結成して会長になっている。1948年には協働組合と消費生活法の議会通過に尽力。1951年には生協連合の初代会長として生協運動の流れをつくった。
1927年9月2日発行の「家庭と消費組合」に消費組合中心の家庭経済を論じた記事があった。大きな流れは、「安価、安心、安定」。営利、競争、投機、掛売、利子、広告、などが一切ないから安価で生産できる。そして質・量・期日、配給などが一定であり安心できる。それが、自主、自立、自治、自由という社会的安定と日用品価格安定と収入の安定をもたrす。この流れは浪費と社会的無秩序を省くという論理構造になっている。
このように書いていくと、この人は日本における生協の創始者だということになるが、こういう流れは一つではない。これは賀川豊彦の活動に一つの側面に過ぎない。

療養事業、教育事業、政治、平和、労働事業、労働者教育事業、農民事業、農民福音学校事業、農漁村セツルメント、農村振興事業、新聞事業など実に多方面に活動している。
そしてそれぞれの事業における立場を書き抜くと、理事長、会長、中央執行委員、顧問、副会長、校長、組合長、社長というように、全て責任者という具合である。

多忙な社会改革運動の間を縫って、作家としても活躍する。代表作の「死線を越えて」は、100万部以上という空前のベストセラーになった。展示してある本のテーマをみると、フィクションでは、農村問題8冊、漁村問題4冊、廃娼問題2冊、社会風刺、協働組合、求ライ、山村、地方都市・政治、開拓、宗教迫害、など実に範囲が広い。代表作は、「死線を越えて」、「一粒の麦」、「空中散歩」、「宇宙の目的」

などがしられているが、生涯著作は200冊を超えている。宗教関係58冊、社会思想39冊、文学53冊、翻訳23冊。
死線を越えて」の印税は今の金額にして10億円を越えたが、自らが関わって敗北した神戸労働争議の後始末や日本農民組合、友愛救済所基本金、消費組合設立費用、社会事業などに半分を出している。

関東大震災の救援活動で目の悪化が進み、それ以降はほとんど口述に頼った。

出した雑誌では、農村、農村改造、世界国家、自然と性格、雲の柱、土地と自由、覚すい婦人など。

1958年8月に世界日曜学校大会で賀川が東京体育館で行った演説「幼な子のごとく」のテープが教会を模した部屋で流れていた。席に座って在りし日の賀川の声に聞き入る。賀川70才の最晩年の時だ。

この資料館は、住み続けた松沢の地に1982年10月に建ったものだは、宗教、哲学、経済、社会、文明批評、随筆、小説、そして賀川個人の全集24巻など、5万冊の蔵書が納められている。

こういった賀川豊彦の事績の一部を追うと、もっとも著名で影響力のあり尊敬された人物であることがわかる。それは1935年にノーベル平和賞候補に擬せられたことでもわかる。韓国の李承晩大統領、中国の蒋介石夫人などからも尊敬されていた。
「あなたは、多年私がはるかに尊敬を寄せている日本の指導者の一人です」(李承晩)。
賀川が詩集を出したとき、与謝野晶子が推薦の言葉を書いていて、賀川の人物がよくわかる。「熱意と、博識と、勇気と、活動とには、全く目覚ましいものがあります。数人の専心努力する所を能く一人で兼ね備へられて居るといふ観があります」(与謝野晶子

賀川はエニアグラムという性格分析からみるとタイプは2であるが3に寄っていると感じるが、若いころ上昇志向が強いことを神父に指摘されているところをみると逆かも知れない。

こうやって事績を並べると鉄の体を持っていたように思えるが、若いころから結核をはじめありとあらゆる病魔が賀川を襲っている。闘病の中で毎日の仕事をこなしていったのだ。

同い年の妻・ハルは、賀川のために一生を捧げた同志でもあり、こういった突出した夫を持つ妻は苦労が絶えなかたっと思われるが、「三十九年の泥道」という詩が見つかっている。

 わが妻恋し 妻恋し
 三十九年の泥道を
 共にふみきし妻恋し、、、、

賀川ハルについては、「わが妻 恋し---香川豊彦の妻ハルの生涯」と(加藤重)という伝記があり、瀬戸内寂聴が「キリスト教の愛と犠牲を身を持って実践し、夫を支え続けたハルの、女の一生の美しさと輝かしさ」と推薦している。

賀川に関する記念碑は、国内13か所、海外ではワシントンカテドラルの中に一つある。

賀川豊彦という人物はもっと今の世に知られるべきである。人の生き方の貴重なモデルである。
賀川の一生は、壁に掲げてあった「愛は私の一切である」という言葉に集約されているように思った。