いわさきちひろ美術館--「ちひろの描く絵のような人だった」

k-hisatune2009-03-08

いわさきちひろ(1918-1974年)を記念した「ちひろ美術館」は、西武新宿線上行井草から徒歩10分ほどの住宅地の一角にあった。

最後の22年間を過ごし数々の素晴らしい絵や絵本を描いた自宅跡にバリアフリーのいい雰囲気の私設の美術館として建っている。日曜日だったが、女性を中心ににぎわっている。
入って右がちひろの作品の複製や本などを売るショップで、左に窓沿いに小さなテーブルと椅子が並べてあり、軽食やの飲み物を摂ることができる。従業員たちはファンなのだろう、よくみるとみんな子どもと花を好んで描いたちひろの絵のイメージのようにいかにも人柄の良さそうな若い人たちである。開館25周年の2002年に公開スペースを2倍に広げている。

展示室1は、ちひろの作品を展示している空間である。「ちひろ 花の画集」出版記念で、80種類以上の花の絵がある。チューリップ、バラ、あやめ、あじさい、ひまわり、シクラメン、、、。

以下、好きな絵のタイトル。
「赤いシクラメンノの花」。添えてあるちひろの言葉は、「去年もおととしもその前の年も ベトナムのこどもの頭の上に 爆弾は降った。、、、、。あたしたちの一生は ずーっとセンスの中だけだったのよ」
「野草とスイートピー」は水墨画風。「春と花のこぎつね」「花のダンス」「あざみと子どもたち」「秋の花と子どもたち」「春の庭」。。・すべて「花と子どもたち」をモチーフとしており、花を前方に描き、子供を後方に配した作品が多い。

55歳で亡くなるまで9500点の作品を描き続けている。ちひろの作品は酸性紙に描いた作品が多いが、時間と共に色が変化するから、セイコーエプソンの協力でデジタル化した作品も展示してあった。ピエゾグラフという。

二本のビデオを観る。はちきれそうな若さのちひろの写真、人柄の良さがわかる笑顔。ちひろの願いは、子どもの幸せと平和だった。意外なことにちひろは共産党員だった。絵という手段で平和の大切さを訴えた人だった。「子どもの四季」「戦火のなかの子どもたち」などの解説があったが、流れる童謡とのハーモニーはよかった。「戦火、、」」の方は、煙の中の子どもの目の表情が切ない。
安曇野ちひろ美術館のビデオでは、両親の故郷にある素晴らしい美術館を紹介している。絵本を美術の一ジャンルにしようと世界28カ国127人の画家の絵を蒐集している美術館である。入口の正面の山も建物の景色の中に取り込んでいるのも斬新だ。「立てひざの少年」という絵がよかった。

2階の展示室2では、ミュンヘン国際児童図書館の架空の絵本展をやっていた。世界の絵本画家72人が描いた本のない絵が展示されている。

2階には、図書室があり、その向かい側にはこどものへやがあり、若いお母さんのために子供を遊ばせておくことができるように配慮されている。

一階に降りると、「ちひろの庭」がある。さまざまの花が咲く心地よい場所である。ちひろは、いつもここで過ごす時間を大切にしていた。

展示室3は、「ちひろのアトリエ」。絵を描く仕事場である。意外なことにちひろは左利きで、採光は右側からとっていた。大きな机に絵の具などの道具を広げて、小さくなった隙間を使って絵を描いていた。

31歳で再婚した8つ年下の相手の松本善明は、ちひろはどのようなひとだったかと問われると、「ちひろの描く絵のような人だった」と答えている。どこかで見た名前だと思ったら、この人は日本共産党の有名な幹部だった。ちひろも共産党員だったのには驚いたが、絵という武器で平和の尊さをアピールしていくのがちひろ流だった。32歳で長男が生まれ、48歳で夫が衆議院議員になる。

この松本善明が書いた「ちひろ」という本は、亡き妻・ちひろを深い愛情を持って語っている。「鉄の棒を真綿でくるんだような人」といいうのが妹たちのちひろ評である。そのちひろは、「我は人の世の痛苦と失望とをなぐさめんために生まれ来つる詩の神の子なり」と述べた樋口一葉に深い共感を寄せていた。

黒柳徹子の空前のベストセラー「窓際のとっとちゃん」の挿絵は、いわさきちひろの絵だった。


1972年に書いた「大人になること」という文章の中にいい言葉があった。

「私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるかぎりのことをしたいのです。」
「自分がやりかけた仕事尾を一歩づつたゆみなく進んでくのが不思議なことだけれど、この世の生き甲斐なんです。」

混んでいるのでもなく、閑散としているのでもなく、ちょうどいい具合に人が訪ねてきて、それぞれが穏やかな顔をしてこの空間を楽しんでいる。いわさきちひろと一緒に幸福な思いに浸れる美術館である。