岩倉具視幽棲旧宅 (京都)--鄭雲軒・対岳文庫

k-hisatune2009-03-21

京都市左京区岩倉上蔵町にある維新の史蹟・岩倉具視幽棲旧邸を訪問する。財団法人岩倉公旧蹟保存会が管理している。

維新の英傑の中で公家として活躍した岩倉具視(1825-1883年)については、薩長のリーダーに隠れてなかなかその実相を知る機会はなかった。岩倉は新政府において参与、議定、大納言、右大臣等をつとめ、1871年(明治4年)特命全権大使として大使節団を率い欧米を約1年10か月にわたって視察する。明治維新がなったのは1868年だから、岩倉は43歳にときである。

岩倉具視は、皇女和宮の将軍(家茂)家降嫁など公武合体を掲げて尽力したが、倒幕急進派の誤解を受け弾劾され、官職を辞し剃髪のうえ洛中より追放され、11代前から縁のあったこの地に幽棲する。1862年から1867年まで5年四余を過ごしたところだ。

「終日掃除ノ処古家ニシテ実ニ住居ナシ難し、兎ニ角落涙ノ外ナシ」と日記にあるように、男盛りの38歳から43歳までを過ごした場所である。ここには、大久保利通中岡慎太郎坂本龍馬明治維新の志士たちが訪問し、王政復古に向けて密議を行ったところである。

「鄭雲軒」という額のある日本間の障子はガラス障子という当時としては珍しいものだった。お手植えの松も庭にあるが、全体としては粗末な家だった。今現在この家は200年近くになる家屋である。

2棟が続く家屋を回ると、「対岳文庫」に出る。今は資料館として使われている。この文庫の岩倉具視関係資料は1011点が重要文化財に四t礼を受けている。比叡山と対峙する岩倉村にいるという意味で自らの雅号を対岳と称していた。

征韓論ンに敗れ下野した高知県士族武市熊吉ら9人が、征韓論論争を主導した右大臣の岩倉を襲った赤坂喰違事件で重傷を負い一命をとりとめたときの衣服・携帯品が展示されている。眉の下と左腰に負傷したが、皇居の四ツ谷濠に転落し襲撃者たちが姿を見失ったため、一命を取り留めた。

文箱、下駄、水筒、、、。岩倉具視直衣姿の写真は教科書などでよくみた正装の写真だ。「岩倉公実記」。「米欧回覧実記」(久米邦武:1839-1931年・久米美術館)には、「観」と「光」の大きな文字が書かれてあった。
明治天皇岩倉公邸親臨之図という絵があった。この親臨の翌朝岩倉は59歳で死去、国葬となった。

手に入れた「国際舞台への日独登場 岩倉使節団--日独交流史展」という小冊子には5代目の子孫で岩倉公爵旧蹟保存会会長の岩倉具忠氏(京都外国語大学教授)のインタビューが載っている。この具忠氏の貴族風の風貌の写真をみて日航時代に二人の岩倉さんを思い出した。一人は新入社員時代の上司であった具二氏。もう一人はロンドン時代に4年ほど先輩だった人でこの人も「具」という字がついていた記憶がある。

岩倉具視の伝記と、米欧回覧実記を読みたい。品川区大崎にある久米美術館は、この邦武の資料と画家であった長男の桂一郎の絵を保存している。次の人物記念館訪問は、ここにしたい。