「横浜市の本体とは市民の精神であります」―原三渓(三渓園)

k-hisatune2009-05-04

横浜に三渓園という公園があることは昔から知っていたが、それは原三渓という人の庭園であり、その人物が優れた人物であったことを初めて知った。

「横浜は良きも悪しきも亀善のはら一つで決まるなり」といわれた原善三郎(1827年―1899年)は、1859年の横浜港開港直後に35歳で生糸貿易商「亀屋」を創業し大成功をおさめ、銀行頭取、初代市会議長、衆議院議員貴族院議員などを歴任した。

その善一郎の孫娘・屋寿と恋愛結婚して、31歳で原家を継いだのが原富太郎である。後に三渓。1868年に岐阜柳津町で生まれた富太郎は、原商店を合名会社に改組し、日本の五大生糸輸出業者になるほどの成功をおさめた。
1902年(36歳)に自宅を本牧に移す。1906年に自邸三渓園を一般公開する。1912年実父の死。1919年祖父・高橋杏村のためにこう徳碑を建立(撰文は鴎外)。1923年関東大震災で壊滅した横浜の復興に立ち上がる。1925年納税額が神奈川県トップになる。1937年長男善一郎死去。1939年70歳で逝去。

三渓の実業家としての経歴を眺めてみると、本業の生糸関係はもちろんだが、金融をはじめとして多くの仕事を引き受けたことがわかる。第二銀行取締役頭取、三井銀行取締役、横浜興信(?)銀行初代頭取、横浜市信用組合長、スマトラ島でのゴム園経営、日本郵船取締役、満鉄監事、、、。私より公を大切にし、横浜の利益になるなら私を無にした。横浜の復興に尽力するなどまさに横浜の恩人だった。

三渓園の記念館では、実業家、奉仕家、美の養成家、美術家・数寄者、という面から資料を展示してある。
「奉仕家」では、「三渓園の美しい自然の風景は私有すべきはない」と市民に開放している。市民にはもちろん喜ばれたが、社会主義者の堺利彦もこの英断を絶賛している。東京専門学校で学んだ三渓は母校の早稲田大学基金管理委員、理工学部新設時に資金を提供、横浜経済協会を設立し横浜駅の移転を推進、鶴見沖埋め立て。神奈川県匡済会での社会福祉事業、横浜貿易復興会理事長、横浜市復興会会長、内閣復興院評議員など数えきれないほどの役職をこなしている。

砂糖商の中村房次郎(1870-1944年)は、三渓について「表面に出ることを好まず、常にその力を内に蓄えられていた。しかし一朝何事かある時は、その内に蓄えられた真の力を縦横にふるわれたものである」と語っている。


「美の養成家」では、岡倉天心の依頼によって、日本美術の再興のために、横山大観、下村観山、小林古径、前田青沌、そして彫刻の平串田中などを援助している。前田青沌は「青年画家を育成された功績は永久に忘れることがでjきない」とその恩を語っている。また、安田○彦は三渓園での研究会を「楽園的会合、極楽世界」と述べている。「今、光悦」と呼ばれていた。三渓は日本美術院復興時には、賛助会員兼評議員もつとめている。しかし、関東大震災を契機に、こういう活動を断っている。

「美術家・数寄者」では、天心の影響を受けて、美術品のコレクター、パトロン、美術家、作庭・建築・茶の湯などを愛好した数寄者であった。自らも絵筆を握る三渓は「美術の世界は他に求めることができない自由の別天地だ」と述べ、4000点の美術品を蒐集した。こういった面では、芥川龍之介谷川徹三夏目漱石井上馨益田鈍翁、佐々木信綱、高浜虚子などとの交遊もあった。

内苑には桃山時代を中心とする名建築が移築されている。桂離宮と双壁をなし徳川吉宗が育った臨春閣をはじめ、月華殿、金毛窟、天授院、聴秋風、九窓亭、蓮華院、寒月庵、林洞庵、臥竜梅など見事な建築物をみることができる。

小高い山の頂上には、伊藤博文が命名した松風閣が建っている。東京湾の絶景を見下ろすことができる。アジア初のノーベル賞をとったインドのタゴールもここを訪れた数ヶ月滞在した。

この原三渓という人物は、横浜の恩人というだけでなく、日本美術界の恩人でもある。そして経営者のあるべき姿、人間としてのあるべき姿を示している。今日の横浜も、今日の日本もこの人物から多くの恩恵をもらっている。
原三渓はもっと研究され、もっと知られていい人物である。

売店で買った新井恵美子「原三渓物語」(神奈川新聞社)を一気に読んで、その感を深くした。

横浜復興会会長就任の挨拶で、
「しかしながらこれは言わば横浜の外形を焼き尽くしたと言うべきものでありまして、横浜市の本体は巌然として尚存在しているのであります。横浜市の本体とは市民の精神であります。市民の元気であります。特にここにおられる二百名の諸君が健在である限り横浜は大丈夫なのだ」と述べて、復興に取り掛かった。勇気を与える素晴らしい挨拶だ。

機会あるごとに、見事な三渓園を訪れて、その遺徳を偲びたい。