ゴーギャンのイメージ発想法

k-hisatune2009-08-16

ポール・ゴーギャン(1848−1903年)は、株式仲買人という職業で成功しており、裕福な生活を送っており、趣味として絵画を描いていた。印象派のカミー・ピサロとの出会いで絵画への情熱が醸成されていく。そして1842年の金融恐慌で株式の仕事が立ち行かなくなって、35歳でゴーギャンは画家として生きることを決意する。当然のごとく家庭は破たんしていく。
「私は野蛮人として生きるために、パナマにゆくつもりなのだ。、、私は絵具と絵筆を持ってゆき、一切の人間から遠く離れて、もう一度自分を鍛え直すつもりなのだ。」(39歳。この年フのァン・ゴッホ兄弟と再会する)

タヒチには魅力がある。女性はいうところの美人ではないが、心を深く動かすような、無限に神秘的な、なんともいえない魅力を持っている。」(44歳。)

49歳、タヒチにいたゴーギャンに最愛の娘の死が伝えられる。死を決意し、自らの芸術の集大成を制作する。この大作の完成後に自殺をはかり未遂に終わる。精神的な遺言がこの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」がそれである。「

僕は野蛮人だよ。文明人達は、それに気づいている。僕の作品の中には、人を驚かせたり、まごつかせたりするものは何もないはずなnにお、みな驚いたり、まごついたりしているから、それは僕の中の野蛮人が、本意なくそうした結果を招いたんだ。これが、僕を模倣できないゆえんさ。」(54歳。この年に大量のモルヒネ服用と心臓発作により死去)


「芸術家は、丸々そっくり、一人だけで生まれてきたりはしない。彼が、次々とつながってゆく鎖に、新しい環を一つ提供できただけで、すでに大したこなのだ」

そのゴーギャンは、記憶の引き出しから、純化されたイメージを取り出すことを実践した。過去の自作全体がイメージの類型を蓄えたデータベースであり、ここから自由に模倣し、転用し、組み合わせて、新しい作品を生み出していった。

そしてイメージの源泉として、古今東西の様々な造形芸術の複製写真やデッサンなどからなる一種の「ポータブル美術館」をタヒチまで携えていた。

学問の進歩に通じる考え方、水木しげるの妖怪創造の方法論に通じる方法論などは、参考になる。