ロシア料理、スマートグリッド、積読、、。

長い付き合いの三笠書房の迫副社長、担当編集者の柴田さんと新著の打ち上げ。11日に配本が決まったそうだ。
場所は、西新宿の「スンガリー」というロシア料理店。「カラマーゾフの兄弟」で昨年ヒットを飛ばした東京外大の亀山邦夫学長が、NHKの「爆笑問題」で紹介していたという店である。周りの店の雑多な環境とは別世界の落ち着いた雰囲気の店だった。ロシア人女性がきびきび働いていた。
ロシア料理は重い。ウオッカは強い。

帰って、「報道ステーション」を見ていたら、オバマ大統領の推進する環境革命のスマートグリッドの話をやっていた。寺島さんが2009年3月の講演会で以下のように予測していた物語が現実になりつつあるということだろうか。

オバマグリーンニューディールという物語はIT革命を超えるか?」」
「「太陽・風力・バイオマスで5.5%。これを10%に。2025年には25%nするという計画。日本の専門家は大したことではないというが、本当か?」
電気自動車(ハイブリッド・燃料電池、、)と再生エネルギー(小型分散・ネットワーク)がいまくかみ合ったら、パラダイム転換が起こる予感もある。IT革命は、ゴアのスーパーハイウェイとインターネットの結合によって成功したのと同じように。」


机の上に積んである本。

もう師走。今年の総括をする時期になった。

ブリジストン美術館で開催中の「安井曾太郎肖像画」展をみた。
安井曾太郎(1888−1955年)は、同い年の梅原龍三郎と画界を二分する力量の持ち主だったが、肖像画を多く描いたのも特徴である。その肖像画は、26歳パリから帰国した直後にち「父の像」「母の像」などを描いたところから始まっている。

  • 乃木大将のめいの長女・野瀬由伎子を描いた「坐像」。安井式肖像画の誕生を告げる絵。
  • 田切容子がモデルの「金蓉」。安部能成先生「はやぶさが獲物を狙うように自分を睨みつけた」、小宮豊隆先生「ポーズをすると安井さんの真剣な態度で、くたくたに、くたびれて了った」とこのモデルは述べている。
  • 第二高等学校校長の玉蟲一郎一(1868−1942)の校長退職記念で描いた「玉蟲先生像」。「玉蟲さんは実にきちんと座られてほとんど動かれなかった。、、古武士の様な所があった。」。のちに安井は一策を選ぶとという問いに対して「玉蟲先生像」を挙げている。
  • 日銀総裁深井英五(1871−1945)の退官記念で本人が所望した「深井英五氏像」。日銀総裁には退官時に記念品を選ぶことができ、玉蟲先生像が気に入っていた深井は安井の描く肖像画を選んだ。「ものを言おうとする直前の表情」。贅沢な記念品である。
  • 14歳の中部夏子をモデルにした「少女像」。夏子は大洋漁業社長をつとめた中部謙吉(1896−1941)の娘。
  • 東大総長をつとめた「長與又郎博士像」。弟子たちが寄付を募り発注したもの。又郎の弟は白樺派の文学者・善郎で安井と親しかった。
  • 随筆家・福島慶子(1900−1983)をモデルにした「F氏夫人像」。
  • 内務省の松原久人を描いた「松原氏像」
  • 満鉄や華北公社総裁をつとめた宇佐美寛爾(1884−1954)を描いた「宇佐美氏像」。
  • 文部大臣・安部能成(1833−1966)を描いた「安部能成像」。
  • 外務大臣・藤山愛一郎(1897−1985)の「藤山氏像」。
  • 夏目漱石の「三四郎」のモデル小宮隆太郎(1884−1966)は玉蟲先生像を描くときに仲介をしたが、今度はその本人が描かれた「小宮隆太郎氏像」。
  • 「大観先生像」は、立派な顔で有名だった「異貌の人」横山大観小林古径、安田、梅原龍三郎、児島喜久雄、そして安井曾太郎5人で一度に写生会で「それぞれが描いた。安井は独特のデフォルメで描いた。
  • 「画室にて」は、夫人の安井はまの56歳のときの像。
  • マルクス経済学者で法政大学総長になった大内兵衛(1888−1980)の像は、還暦記念に教え子たちが発注した作品。
  • 安部能成君像」は三作目であるが、一高校長をつとめた時の教え子たちが古希の記念として贈ったものだ。この安部は、安井の葬儀委員長ををつとめた。副委員長は梅原龍三郎
  • 「仕事中の本多先生」は、東北大学総長をつとめた本多光太郎(1870−1954)の在職25周年記念の作品。手を組んでいる。安井は仙台と深い縁がある。
  • 「徳川圀順氏肖像画」は、水戸徳川家第13代当主で貴族院議長の徳川圀順(1886−1969)の貴族院議長退任時に肖像画が描かれるという慣例で描いたもの。

 徳川は「私はこんなおやじかとがっかりしたが、安井さんに描いてもらわれた方が皆いわれるように、自分もだんだん絵に似てくるように思われる」と述べている。

  • 信濃毎日社長、信越化学社長をつとめた小坂順造(1881−1960)を描いた「小坂氏像」。この人物の長男・善太郎は外相、三男・徳三郎は運輸相。
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この展覧会を見ていると、偉い人物が役職を退くときや、長命のお祝いに、肖像画を贈るという伝統が最近まであったことがわかる。現在は写真で済ましているいのだろうが、肖像画で残すというのも面白い慣習である。描かれた人たちは、それぞれ不満の様子やとまどいがあった。それは、省略と誇張を重ね、戯画化にいたる直前で踏みとどまるという安井の作風によるのだろう。「ネクタイが一寸曲がっていたりで先生(本多光太郎)自身は余りお気に入りではなかったそうだが、皆がいいというので(それはいいわなあ)となったとか」というエピソードも残っている。
安井は生涯で30点ほどの肖像画を描いているが、徳富蘇峰肖像画だけは描かなかった。友人の志賀直哉が「あんな奴を描くのか」と言ったという。戦前のオピノンリーダーだった蘇峰に対する激しい憤りだった。
「その瞬間、私は並み居る人々皆が、私を見て笑っているように思われまして、実に恥ずかしい気持ちで困っていました、、」
「安部君はいい顔だからもう一度書きたい」
「人ならば、話し、動き、生活する人を描きたい。その人の性格、場合によっては職業までも充分現わしたい。」
「よきポーズと、よき背景を得ば、その絵は成功であると言ってもよき位である。

世界でもっとも多くの肖像彫刻を残している朝倉文夫は、明治の元勲を残らず作ろうとしていて、そのときの交流を楽しんでいたが、人物の肖像画の世界も興味深い。