本居宣長記念館−「もののあはれとは、、、人の心の中に起こる感動」

k-hisatune2010-03-06

朝7時50分の近鉄特急で前日集合した妻と一緒に三重県松阪へ向かう。コンビナートの四日市、県庁のある津市を過ぎて松坂に到着。松阪は、戦国武将・蒲生氏郷が1588年に城を築いた町で、楽市楽座などの善政を行ったため、商人の町として発展する。松坂商人と呼ばれていた。三井家の発祥の地でもある。
雨の中、「財団法人鈴屋遺蹟保存会 本居宣長記念館」に到着。今年1月3日のこのブログの記事を以下に記す。
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本居宣長(1730-1801年)は、35歳の時に着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。

宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。近所や親戚との付き合いをそつなくこなし、支出を省く。そうやって時間を捻出し、金をつくり書物を買い、そして学問の道に励んだ。学問する環境をいかに整えていったか、そして日常生活をいかに効率的に過ごすかというマニュアルが膨大に残っている。

「されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづれて、止(や)むことなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくずるるは、学問に大にきらふ事ずかし」(自分には才能がない、学問を始めたのが遅い、勉強する時間がないからといって、学ぶことを怠ってはいけない。如何なる場合も諦めず努力しさえすれば、目的は達し得るものであることを知るべきである。道半ばで挫折をしてしまうことが、学問の神様の最も嫌うところである)

本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。養子の太平が描いた図が残っている。「恩頼図」といって、自分の学問にあたって恩を受けた人々と、自分を通してその学問に連なる人々の名前が記録されている。中央に宣長自身と、宣長が著した古事記伝を中心とする著書も配置されている。
三重県の松坂には本居宣長記念館(吉田悦之館長)があり、そこには1万6千点に及ぶ宣長に関する資料が保存されている。今年はこの記念館にも訪れたい。
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致知」という雑誌に、本居宣長記念館の吉田悦之館長のインタビュー記事が載っており、その内容に誘われて行くことになったので、館長さんを訪ねて少し話をを聞いた。
本居宣長は、感謝の念が根本にあった。父母、先生、孔子、、垂加神道などの敵方、、」「生きていることに感謝していた人だ」「手抜きしない人。学問、医者、町人、親戚付き合い、、、。」「「古事記伝」は実に面白い」「明るい人です」わからないが、私はここまで考えてみた、という言い方」「次の人、未来の人にあとは任せたい」」「500年後、1000年後の未来の人に向かってボールを投げた」「源氏物語宣長の700年前、古事記は1000年前」「この記念館は先人の旧宅保存のさきがけ。1968年に重要文化財に指定された。歴史史料としれは初めて」「1970年にできた記念館はその後の記念館のモデルとなった」「「学問の道」というアイデアが松阪に出てきた」「旧宅に上がって宣長を偲んで下さい」

本居宣長は、最初商人にさせようとした母から、江戸での丁稚奉公や商人としての経験を積まされたり(16才)、商人の家に養子に入るがすぐに離縁されたりしている。、学問に気をとられてうまくいかない。母は学問に身を入れて医者になれと勧め、その合間に好きな和歌や文学をすることをすすめ、今日との堀恵山に弟子入りをする。迷いの多い青春時代だった。そして26才で医者になり春庵と称す。34才にときに伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。「古事記伝」の基礎と成る万葉集の4500首の和歌の言葉の疑問点を真淵に送った、質問は1000項目に及んでいる。万葉集で「やまとこば」を学び、その後「古事記」に進むのがよいだろうといアドバイスされたのである。35才で「古事記伝」の準備に着手する。この頃冒頭の七百字の注に3年半をかけている。39才で「古事記伝」巻四の稿がなる。そして69才で「古事記伝」四十四巻を脱稿する。この間、実に35年。1801年に72才で没するのだが、「古事記伝」全巻が刊行したのは、21年後の1822年だった。

恋が人の心の根本であり、それをうたった和歌の研究をしたいと宣長は思った。万葉集古今和歌集、国文学の研究に没頭する。「恋なくば人は心のなかりけり もののあはれはこれよりぞ知る」(?)という藤原俊成の歌が、本質を示していると感じていた。

古事記をよめば、日本の本当の姿がわかる」
「学問というものはただ年月長く飽きることなく怠ることなく努力することが大事で、方法というのはあまり問題ではない」
「歌はもののあはれを知ることによって生じる」
もののあはれとは、人生のさまざまな事がらを見聞きし、体験するにつれて、それらの事柄の意味を心に深く感じることによって、人の心の中に起こる感動をいう」
もののあはれに耐え難いとき、自然にその思いを言葉に言い出してしまう。その言葉は、「必長く延て文あるもの」になり。そこに和歌が生じるのである」

本居宣長は、儒学仏教の影響を受ける前の日本人の考え方や信仰、宇宙観が古事記に書かれていると確信していた。

余談だが、宣長はヘビースモーカーだった。煙がすごくて苦情が多かった。1904年に日露戦争の戦費をまかなうために政府は専売たばこを販売するが、銘柄は「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名付けられた。これは、「敷島の大和心を人問うはば朝日に匂ふ山桜花」という宣長の有名な歌からとったものである。そして第二次大戦の神風特攻隊敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊といいう部隊名も宣長の歌にちなんでつけられた。

宣長日記には日常と周辺の動静が記録されている。
 日々の天候、社寺参詣の事、身辺の冠婚葬祭、歌会、講義、会読、自己及び家族近親の往来、旅行、病気、書簡の往来、町内の些事、出産等の慶事の記録。幕府・藩侯からのお触れ、天変地異、火事、寺院の開帳、芝居の興行。皇室をはじめ、幕府・藩の高官の動向、大坂・江戸・京都の様子、参宮などの往来。毎年の記載の終わりには米価の相場も記録していた。

宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新尊皇攘夷運動の原動力となっていく。