多摩NT開発の歴史資料展、諏訪永山住宅建て替え、旧富澤家住宅

k-hisatune2010-03-28

「開発の記録−−資料に見る多摩ニュータウン」(パルテノン多摩歴史ミュージアム特別展)をみる。3000へクタール、居住人口33万人を目指す大いなる開発。開発主体の東京都と都市整備再生機構の事務所が閉鎖されることに伴う企画展。「記録映画にみる多摩ニュータウン開発」が興味深かった。1965年に都市計画が決定され、日本住宅公団、東京都、東京都住宅供給公社の三者が主体となった。日本住宅公団は2005年、東京都の事務所は2007年、都市整備再生機構は2009年にタマニュータウン事務所を閉鎖。小田急多摩線は1974年6月、京王相模原線は1974年10月に開業し、新住民の足となった。
記録映画によると、1DKの家賃3万円、4DK91へーべの分譲受託は1590万円。低層テラスハウス87へーべ1500-1900万。タウンハウス82へーべは2740万まで。メゾネット型賃貸82へーべは8万5千円。宅地172-277へーべで1486万円ほど。昭和58年(1983年)頃には南大沢の公社4LDK118へーべ4700万円、都営住宅3LDK60へーべの家賃は4万1千円。聖ヶ丘の一区画は7400万円。昭和60年代煮入ると、125へーべで4950万、ツインリビング96へーべは15万。161へーべ7890万まで。平成に入ると、156へーべの5LDK、ピラミッド型、車椅子住宅、シルバーピア住宅なども現れる。当初目標は8万5千戸だった。21の居住区がある。一居住区は2つの小学校と一つの中学校があり、1万3千人。第一次入居は、昭和46年(1971年)の2690戸っで、諏訪・永山から」開始された。40年前だ。2002年の統計が飾ってあったが、多摩ニュータウンの人口は多摩市10万、八王子市8万、稲城市2万で20万人となっている。その後も、人口はずっと伸び続けている。

奇しくも同日の日経新聞電子版の記事で、多摩ニュータウンの記事を見かけた。東京都の多摩ニュータウンで約40年前に入居が始まった「諏訪二丁目住宅」の管理組合は28日、臨時総会を開き、老朽化した住宅の建て替え決議を賛成多数で可決した。 高層・集約化する。建て替え規模は「国内最大級」(マンション政策室)になるという。費用は戸数が増える分の売却収入で賄う。


中央公園の中にある「旧富沢家住宅」(多摩市)を見学する。明治天皇や皇族が連光寺にあったこの住宅で休憩したという由緒ある住宅である。明治天皇始め皇族が、明治14年(1881年)以降、何度かこの地に兎狩りをした行幸・行啓の祭に「御小休所」として利用された。明治天皇は御殿峠で狩をして楽しかったため滞在を一日延ばして連光寺で兎狩りをした。とのとき、この家は何年頃のものか御下問があって、当主は慶長頃と答えたという。つまり同家の母屋は慶長十五年(1610) 棟上以来、四百年近くもそのまま使われてきたことになる。一民家としては希なことである。また、この住宅は入母屋造りの式台付玄関のある珍しい家で、パンフレットには18世紀中頃から後半に建てられたらしいとの記述がある。17世紀か、18世紀か、どちらだろう。
そういう言われ以上に興味をそそられたのは、この家の当主は新選組に関係していたことだった。富沢政恕(1824年生まれ)は、天然理心流剣術を近藤周助から学び、佐藤一斎から儒学を学んだ。38歳で日野宿の大惣代となる。新選組の援助者だった。政恕は近藤勇が調布から江戸試衛館道場主近藤周助との養子縁組した際の仲人役だった。近藤勇新選組局長として京都で活躍していたとき、訪問し大変な歓迎を受けている。後に新選組近藤勇土方歳三の「殉節両雄之碑」を高幡不動に建立している。あの立派な碑を建てた人物だったのだ。

以上、今日は「住宅」の日でした。

Twitterのフォロワーは3月10日が1000で本日1100となった。18日で100、ということは一日5.5だから一年で2000増えるというペースか。