魯迅、孫文、周恩来。

3日のテレビで中国人民抗日戦勝利記念日という番組をやっていた。抗日記念館での行事であったが、胡主席、習副主席も参加。
万博へのタクシーの運転手は、自分の車を持っており、万博期間中は休みを取らずに一日16時間働いている。一ヶ月で日本円で12万の利益。現在250へーべの300万元のマンションを所有。2ヶ月前に子供が生まれたから頑張っている。30歳過ぎ。必死だ。
日本のものは品質がいいけれども、価格が高い。申請手続きに時間がかかるなど意思決定に時間がかかる。行動に遅れが出ている。中国や韓国は頑張っている。中国は日本の技術を取り入れて改良して輸出。これを技術の進化と呼んでいる。最近、アメリカは200人の官僚を中国に派遣し勉強させた。日本でも岡田外相が官僚を200人連れて中国に来たが、日本のマスコミには出ていない。

上海の魯迅公園。この旅行中に見かけなかった老人がたくさんいた。カラオケ、太極拳、音楽、フォークダンス、トランプ、などに興じている。

魯迅記念館。中国では魯迅、ルーシュンの存在感は大きい。彷徨、狂人日記新青年、阿q正る。伝、祝福、故郷、一件小事、故事新編、、、。読書には3つの味があるという意味の「三味書屋」という書がかかっているレプリカあり。
1904年の仙台医学校での藤野先生が赤入れをしたノートの実物が展示してあった。また魯迅の「藤野先生」の原稿もみた。「惜別 藤野 謹呈 周君」と書いた色紙もある。これは藤野巌九郎(1874−1945)が若き周、後の魯迅に与えたものだ。1933年頃には魯迅の全作品は発売をきんしされ、このためもあって魯迅は40以上の筆名で申報や自由談に書いている。
魯迅を囲む青年たちの写真をもとに製作された蝋人形がある。魯迅の息づかい、青年たちの目の輝きなどが表現されている。この人形たちと写真をとった。これを許した守衛が仲間に批判されるという事態になった。魯迅は短髪、口髭で中国服。男らしい風貌である。青年達はわらっていたり、身を乗り出したりしている。
魯迅を助けた日本人、内山完造のコーナーがあった。内山は魯迅より4つ下の1885年のうまれ。岡山県出身。1917年に上海で書店を開業、1927年に魯迅と知り合う。1931年魯迅をかくまう。1948年に帰国し、中国漫談で全国行脚。1950年に日中友好協会を設立し初代理事長。1959年に訪中し、北京で死去。74歳。「師弟問答集」を共著で書いた増田渉、山本実彦、、。

魯迅著作は多くの国で翻訳されている。その筆頭はロシア37、日本35。後はアメリカや応酬で少しづつ翻訳されている
「民族魂」という魯迅の書は見事だった。1998年に仙台を訪れた江沢民魯迅の石碑に献花する写真も展示してある。
魯迅の全著作と他の国での翻訳書が壁一面に飾ってある。竹内好、尾𥔎ほ秀樹と並んで私の郷里の恩師、横松宗先生の「魯迅 民族の教師」も展示されていたので感激。

魯迅故居。歩いて近くの魯迅が死去まで過ごした家を訪問。3階建てのマンション形式。以下気は食堂と応接間。2階はベッドルームともの入れ。3階は息子の居宅。この息子は現在は80才になるが北京で暮らしている。

内山書店の後は表通りに面したいい場所だが、現在は中国工商銀行になっている。この2階に内山書店記念室があるのだが、土曜日でやっていなかった。上海市記念地である。進歩的知識人の集う場だった。

上海孫中山故居記念館。中国革命の父孫文の記念館だ。入り口の前の孫文銅像はきりりとして、おしゃれでかっこいい。宋慶令との結婚の仲介をした梅屋庄吉、小さな挙式を挙げた和田という弁護士など、孫文の人生と中国革命にも日本人が関わっている。孫文が可愛がった蒋介石の写真もあったが、涼しい目とりりしい口もとのいい顔をしている。孫文は「民族・民権・民生」の三民主義が有名だが、日本に鉄道の調査に来るなど中国のインフラ革命の計画を立てた人でもあった。黄ほ軍事学校を創設して総理になっているが、校長は蒋介石、政治部主任は周恩来であった。孫文は死に際して、「和平、奮闘、救中国」という言葉を遺した。
「精益求精」「天下為公」「博愛」などの書を見た。孫文の書は縁のあった人の記念館などではよくみかける。

孫中山故居。隣は実際に住んでいた住居。自分で設計した。

周(恩来)公館。中国共産党代表団の上海拠点で、ここを根城に周恩来蒋介石と談判に向かった拠点である。

魯迅:1881−1936
孫文:1866−1925
周恩来

南京楼で食事と買い物。

上海バンドのルーズベルトハウスで上海の絶景を見ながらビールを飲む。

韓国焼肉。

上海虹橋駅から北京へ。上海では右が大空港、すぐ左が駅。どちらも同じようにつくってある。床も磨き込まれていて鏡のようだ。