静嘉堂文庫美術館。畠山記念館。太田記念美術館。

日曜日は、東京都内を駆け巡る。


静嘉堂文庫美術館
二子玉川の世田谷区岡本の国分寺崖線の一画に4600坪の緑豊かな岡本静嘉堂緑地という庭園がある。ここは三菱の二代目・岩崎弥之助の土地であった。静嘉堂とは、弥之助の堂号で祖先の霊前への供物が立派に整うという意味である。静嘉堂文庫には、20万冊の古書籍と6500点の東洋古美術品が収納されている。その文庫百周年記念事業として美術館が建てられた。
岩崎弥太郎1834年生まれ)は、海運から始めて鉱業、造船業、保険、為替など事業の「多角化」を図った。二代目の弟・弥之助(1851年生まれ)は海から陸へと事業「領域を広げ」、丸の内・神田に10万坪の土地を買った。その後、弥太郎の息子の久弥を経て、弥之助の息子・岩崎小弥太(1899年生まれ)は30年の長きに亘り社長業を続け、部門毎の「分社化」に取り組み重工(造船)、商事、銀行、地所と優れた企業をつくっていった。
弥之助は、中国陶磁も含めた東洋美術の一大コレクションを夢見ていた。弥之助は、絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣などを蒐集した。小弥太は、中国陶磁を学術的観点から系統的に蒐集した。中国陶磁は800件を数える国内有数のコレクションである。
「中国陶磁名品展」を開催していた。唐三彩(白地に緑、褐色など複数の色をかけて低火度で焼いた陶器。7世紀後半に誕生)、景徳鎮窯(唐・清)などを見た。
中根千枝文庫長・美術館長だったので驚いた。中根さんは元東大の文化人類学の教授で、『タテ社会の人間関係』は代表的な日本人論として100万部を超えるベスト&ロングセラーになった。文化勲章受章者。


畠山記念館。
高輪台にある旧・参議寺島宗則邸は、元々薩摩島津家の所有であった。庭が素晴らしく亀岡十勝といわれており、その詩碑もある。その寺島邸は荏原製作所を創業し50余年の長きにわたりしゃちょうを続けた畠山一清・即翁(1881-1971年)の屋敷となった。即翁は貴族院議員や日本発明協会会長などを歴任している。記念館の一階には、「畠山即翁寿像」という楠材の一木造りの木彫があり、「平櫛田中 刀」との銘があった。
即翁は茶道具を中心とした名品を集めた。千利休作の「茶杓 銘 落曇(おちぐもり)」、信長・秀吉時代に「一国一城に匹敵するとされた唐物方衛茶入 銘 日野」、割高台茶碗(古田織部が所持)、そして黄瀬戸、黒織部、志野茶碗、楽長次郎作の「灰器 銘 大笑」などが目についた。
この庭園には6つの茶室があるが、本日は茶会があるようで、和服姿の女性達がたくさん庭園を歩いていた。


太田記念美術館
原宿駅から徒歩数分のところにある太田記念美術館。東邦生命保険会長の太田清蔵(1893-1977年)が半世紀にわたって集めた一万二千点という浮世絵の個人コレクションを擁する美術館で、浮世絵の草創期から近代にいたる歴史をすべてみることができる。日本屈指の浮世絵美術館だ。このコレクションは見れなかったが、「ハンブルク美術工芸博物館」の浮世絵展覧会をやっていた。ユストス・ブリンクマン(1843-1915年)という弁護士が初代館長となって1877年に開設、その後1833年頃から日本美術を体系的に収集。ゲルハルト・シャック(1929-2007年)という浮世絵コレクターから死後寄付された作品も加わった。今回の展覧会は日独交流150周年記念事業である。混んでいてt、外国人も多い。
初期浮世絵版画の時代。菱川師宣、砂川豊信、鳥居清満。「吉原」
錦絵完成。鈴木春信の多色刷り。春信様式の時代。「下駄の雪取り」
錦絵の黄金時代。天明から寛政。1781-1801年。鳥居清長、喜多川歌麿東洲斎写楽。写楽の「松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ」。喜多川歌麿「美人子供行列」、花見行列28人。
多様な幕末の浮世絵。葛飾派と歌川派、北斎と広重。