松永安左エ門(耳庵)記念館

小田原の板橋地区には歴史にかかわる建物が多い。
電力の鬼・松永安左エ門を記念した松永記念館。山縣有朋の居宅であった古希庵。大倉喜八郎の別邸であった山月。清浦奎吾の皆春荘。隣の箱根と違って海に面しており一年を通じて温暖なため、政財界の大物が小田原に自宅を構えた。

「電力の鬼」と称された松永安左エ門(1875-1971年)は、耳庵という号を持つ著名な茶人でもあった。
長崎の壱岐に生まれた松永は15歳で慶応義塾に入学するが、父の死去に伴って慶応を中退し、家督を継ぐ。21歳で慶応義塾に復学、学生自治会を創設する。福沢桃介の勧めで慶応を中退し日本銀行に入行。その後、独立し石炭販売で成功を収める。
35歳以降に電力にかかわる事業に邁進する。福博電気軌道専務(福沢桃介社長)。37歳、九州電気専務、博多電灯軌道専務。38歳、九州電灯鉄道常務。43歳、福岡市選出の衆議院議員、博多商業会議所会頭。47歳、関西電気副社長。48歳、九州電灯鉄道を合併し東邦電力になり本社を東京に移転。51歳、東京電力を発足させ副社長に就任。54歳、東京電灯取締役、東邦電力社長。55歳、東北電気社長。56歳、新潟電力社長、中部電力取締役。66歳、大政翼賛会総裁や大蔵大臣に推挙されるが辞退、東邦電力会長。68歳、反対していた電力事業の国家統制にともない東邦電力を解散。戦後、75歳(1949年)、電気事業再編審議員に就任し各地域に発送配電一環経営の民営電力会社を設立し外資導入による電源開発を促進する目標を示す、これが後の九電力体制になる。77歳、電気事業再編を強行し「電力の鬼」と称される。79歳、(財)電力中央研究所理事長。81歳、電力設備近代化調査委員会を設立。82歳、産業計画会議そ組織し委員長。84歳、(財)超高圧電力研究所を設立し理事長。85歳、財団法人松永記念館設立。87歳、東京湾横断道路を提案。90歳、勲一等瑞宝章。97歳、産業計画会議、東南アジア経済協力会役員会に出席。6月16日、永眠。

まさに電力一筋の鬼気迫る仕事人生である。数々の電力事業にか関わった後に、現在の電力供給体制を発案し、強力に実行した人物だ。電気事業の国家統制に反対し東邦電力を解散するなど、信念の持ち主でもあった。

60歳から、耳庵という号を持って、お茶に情熱を傾ける。孔子の「五十にして天命をしる 六十にして耳順う」からこの号を採用している。そして政財界の重鎮を招いて茶会を催す。この松永が72歳から住んだ居宅は、前面に欅(けやき)の見事な巨木がありそれに因んで老欅荘と呼んでいる。そこを見学する。松永記念館本館・別館に面した庭には、奈良・平安時代の石造物が点在し見所が多い。この庭は「日本の歴史公園100選」にも選ばれている名庭園である。現在では、この記念館は小田原市郷土文化館分館となっている。別館は、ベストセラー「天の夕顔」を書いた中川与一(1897-1994年)の記念室だった。「白秋も潤一郎も如是閑もかつて住みし小田原のまち」。

60歳から始めたお茶で、この人の名は高い。茶を通じて交流した人の名をあげる。杉山茂丸、福沢桃介、益田鈍翁根津嘉一郎(青山)、原山渓(富太郎)、小林逸翁(一三)、高橋箒庵(義雄)、野崎幻庵(広太)、畠山逸翁(一清)、、、。

松永の64歳にときに益田鈍翁没。67歳では野崎幻庵没。70歳では山下亀三郎没。83歳で小林逸翁没。85歳では五島慶太没。97歳という長寿の間に見送った友人の数は計り知れない。その都度、松永は何を思っただろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−
午後は、幕張の全国市町村職員研修所(市町村アカデミー)で全国の行政マンに対する講義と実習。今回は「政策企画」コースで、企画担当者59名。平均年齢は37歳。
夜は、知研の忘年発表会に参加。