「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦谷重三郎」

多摩での午前の学部の講義から、品川での夕刻の大学院の講義の間に、六本木のサントリー美術館にに立ち寄る。
歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦谷重三郎」という企画展である。前からこの企画展には関心はあって、昨日のリレー講座でも田中優子先生が推薦していたので訪問した。

吉原の申し子蔦谷重三郎(1750-1797年)は、10年ほどの短い期間に貸本屋から小売り、そして吉原耕書堂という版元にまで成長し、江戸時代、そして吉原の文化を創出し、リード、演出した名プロデューサーであった。絵師・喜多川歌麿(1753?-1806年)、絵師・東洲斎写楽(?)、戯作者・絵師・山東京伝(1761-1816年)、狂歌師・太田南ぼ(四方赤良)(1749-1823年)など人たちと親交を結び、世に出した。
20代半ば、文化サロンであった吉原のガイド「吉原細見」の編集を任され、当時のファッションリーダーであった遊女を巡る情報満載の情報誌をつくり人気を博した。1774年に「一目千本」という遊女を花に例えたガイドブックをヒットさせ、蔦重は吉原全体の広告代理店のような存在になっていく。特定の遊女を描く冊子は、遊女をスポンサーとした印刷物であり、蔦重はアイデアマンであった。

  • 「青楼十二時」は、遊女の一日を一刻ごとに12図に描いた喜多川歌麿の作品。
  • 「画本虫撰」は、宿屋飯盛撰で喜多川歌麿画。

松平定信寛政の改革で下火になった巻き返しとして、歌麿の大首絵をでクローズアップした美人画で起死回生を図り、歌麿時代の寵児となっていく。
1794年から1795年にかけてわずか9ヶ月しか活動しなかった謎の絵師・東洲斎写楽を発見・発掘したのも蔦重だった。デビューは28点の役者絵を一度に出すなど派手な演出だった。写楽は主役でもない脇役の役者を表情豊かに描き人気を博した。僅かの期間に写楽は140点の作品を遺して忽然と消える。金貸しの石部金吉という名前の入った作品があった。融通のきかない人の代名詞である石部金吉はここからでたのか。
また、10歳ほど年下の葛飾北斎も蔦重のもとで絵を描いている時代があった。

この人は、狂歌を媒介としたサロンをつくり文化ネットワークを形成しながら、時代を読む鋭い感覚で、絵師を育てた、名伯楽だったのだ。
版元の蔦重は、狂歌絵本、美人大首絵、役者絵、黄表紙、洒落本、絵本、黄表紙装絵、など多彩な出版に果敢に挑戦していく。当時の江戸の文化人ネットワークの中心にいた。蔦重は、伊勢の本居宣長にまで会いにいっている。

浮世絵展はいろいろな美術館で開かれ人気が高いが、作品をプロデュースする版元に焦点をあてたこの企画はいい。

買ったガイドブックには、「蔦谷重三郎は何を仕掛けたのか」というタイトルで田中優子先生の考察があり、また蔦重の研究の蓄積のある鈴木俊幸さんの「蔦谷重三郎という本屋」という文章も載っており、読んでみた。これは後で追加してまとめることにしたい。