「ある造形家の足跡--佐藤忠良」(世田谷美術館)

世田谷美術館で「ある造形家--佐藤忠良」展が開かれている。
今年白寿(99歳)を迎える彫刻家は、宮城県出身でもあり、仙台の宮城県美術館の中にある記念館を何度か訪問したことがある。また、滋賀県の佐川美術館の中にある佐藤忠良館も観たことがある。

1912年生まれということは明治の最後の年に生まれた人だ。生まれたのは宮城県黒川郡大和町ということは宮城大学のある場所だ。ドライブして佐藤忠良の彫刻を見たことを思い出す。
7歳で北海道に移住し、北大農学部受験に失敗し、20歳で上京。22歳で東京美術学校に入学する。教官には朝倉文夫北村西望がいた。佐藤忠良ロダン高村光太郎の後継を意識していた。それは人間を中心に据えた造形である。

毎年「今年の抱負は」と聞かれて、毎年「去年の続き」と答えてきたという。つまりはたゆまぬ継続が信条なのだろう。自身の自称は「彫刻の職人」である。

28歳、結婚し世田谷に住む。その後、戦争で満州に行き、シベリアでの抑留生活。36歳で帰国し北海道の中学時代の先輩・本郷新宅に寄寓。37歳、代々木上原に新居。42歳、桑沢デザイン研究所講師。54歳、桑沢がつくった東京造形大学主任教授。78歳、宮城県美術館佐藤忠良記念館。86歳、滋賀県佐藤忠良館。96歳、佐藤忠良記念子どもアトリエ開館。

  • 絶えず「目と心と技術」の訓練をするおとです。彫刻家は一個の像の中に主題のための「空間」と「時間」をできうる限りつめこまねばならない宿命を持たされていて、それには高度な精神と技術が必要になってくるからです。(1965年)
  • デッサンは作者の目と心の硬化を防ぐ息の長い体操のようなものです。
  • 段取り半分

「蒼をつくる」という宮城県美術館がつくったビデオを観た。ブロンズ彫刻ができるまでの長い工程を知った。複雑な工程、多くの職人、長い時間が必要な総合芸術という印象を持った。

代表作の「帽子」シリーズ、自身の子供や孫をモデルとしたシリーズ、「きたなづくり」と言われた庶民の顔のシリーズなどがよかった。