宮崎滔天--宮崎兄弟(八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵)の生家

朝食は、熊本学園大学の岡本学長とご一緒する。
熊日で私の講演のことが出ていて、面会を申し込んでこられた。熊本学園大学は私の頃は熊本商科大学といったそうで、熊本の政財界がつくった大学で、市立的な雰囲気があるそうだ。地元で活躍する卒業生も多く、基盤は安定しているが、それが強みでもあり、弱みにもなっているということだ。学長としてアンテナを外に張って仕事をされている。その一環として私と食事をすることになった。昭和40年卒業の九大経済学部卒の先輩でもある。多摩大のこともよく知っておられて最近の事情を質問されたのでご説明をする。熊本での再会を約す。

松前重義記念館と宮崎兄弟の生家のいずれを訪問するか迷ったが、熊本から小一時間の荒尾の宮崎滔天ら兄弟の資料館を訪問することにした。

近代日中交流史の原点ともいえる宮崎兄弟の生家を復元しており、宮崎兄弟資料館がその一角にある。八郎、民蔵、弥蔵、寅蔵。末子の寅蔵が、宮崎滔天で、孫文を助けた。滔天がいなければ辛亥革命はならなかった。著者、「三十三年の夢」を購入。日中双方の事情から歴史の中で埋没した人物だが、もっと光があたっていい。

「天成のジャーナリストであり、熊本における民権論の、唯一のと言わなければ第一の急先鋒」と徳富蘇峰が評した宮崎八郎。国権主義に傾く政府をまず倒すために西郷軍に投じ、後に西郷と主義の戦いをするという戦略で戦った。

「哲人と申者今世に在らば、此人の如きは其一人なるべし」と言われた宮崎民蔵は、孫文と知り合い、中国と深い関係を持つ。土地開放を一生のテーマとする。

福沢の「脱亜論」に対立する「革命的アジア主義」を唱えたのが、宮崎弥蔵である。日本国内の革命ではなく、アジアの大国・中国での革命から全アジアの自由民権革命を志向した革命家。

その弥蔵の志を実行すべく、孫文と深い交流を結ぶ宮崎寅蔵(滔天)は、「三十三年の夢」という半生を描いた自伝を書き、それが媒介となって孫文と黄興が協力し「中国同盟会」が結成され、それが1911年の辛亥革命につながっていく。