細井平洲記念館--「学思行相まって良となす」

名古屋から名鉄知多半島東海市太田川へ。そこからタクシーで細井平洲記念館。
館長の立松彰さん、東海市の黒江社会教育課長とご挨拶。立松館長は人物記念館の旅が日経新聞文化欄に紹介されたときに、ブログに書き込んでくれた方。

細井平洲(1728-1801年)は、尾張藩の藩校・明倫堂の督学(学長)。10歳で名古屋、16歳で京都、18歳で長崎に遊学し、24歳のときに江戸で私塾を開く。26歳で伊予西条藩世子の賓師。私塾をおう鳴館とする。
平洲は14歳の米沢藩の次期藩主・上杉治憲の賓師となる。これが有名な上杉鷹山(1751-1822年)である。3年後に鷹山は藩主となる。鷹山は新規事業の振興、技術y開発、人事組織改革、教育改革などを断行し、経済的に破たんをきたしていた米沢藩を蘇えらせた名君である。内村鑑三の「代表的日本人」でも西郷や中江藤樹などと並んで紹介されている。ケネディ大統領が鷹山を尊敬していたのは、この本を読んで鷹山を知ったからだ。また西郷隆盛が尊敬した人物としても知られている。
47歳、米沢に興譲館をつくり学則を定める。56歳、藩校明倫堂が竣工し督学(学長)。59歳、人吉藩の藩校・時習館の設立にあたっては弟子を館長に推薦。74歳、没。
19歳で米沢藩の藩主となる鷹山に与えた言葉がある。

  • 勇なるかな、勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや

平洲の言葉。

  • 学思行相まって良となす(学問と思索と実行が三つそろって初めて学問になる)
  • 先施の心(まず自分の方から働きかけよ)
  • 難しいことをやさしく。それも武士だけでなく一般庶民にも伝えたい。
  • 学問はちょうちんだ。
  • 民を泣かせるなた、まず自分が泣け。

この平洲記念館の名誉館長は作家の童門冬二(1927年生)だったので驚いた。ビデオで童門は「平洲は鷹山にあなたは山の上の一本松だ。風当たりが強い。しかしあなたは幹である。幹がひっくり返ると枝もだめになると「勇」を説いた」と言っていた。童門の「戦国名将一日一言」「太宰治の言葉」「へいしゅうせんせえ」が並べてある。
同じく作家の上之郷利昭(1936年生)は、「学思行」について解説していた。

この日、「童門冬二平洲記念館事業 ふるさと先人勉強会」の総括フォーラムが行われることになっており、東洋大の吉田公平教授と法政大の王敏(わんみん)教授がこの記念館にみえた。
一緒にみえたPHP総研の人に紹介されたときに、「PHPから「遅咲き偉人伝」を最近出した」と言ったら、向こうはあっと驚いて「「遅咲き偉人伝」を読んで、連絡を取ろうと思っていたところです」という反応だった。この寺田昭一さんは公共経営支援センターのシニアコンサルタントという肩書きだったが、PHPの「歴史街道」の編集長などをつとめた人だと聞いた。この出会いも面白い。

「代表的日本人」の鷹山のところには、豊前中津藩の藩校・進修館の教授倉成善卿が出てくる。鷹山は中津藩とも親交があった。

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名古屋に戻って、トヨタテクノミュージアム産業技術館を訪問。トヨタグループ館。繊維機械館、自動車館を見学。豊田織機製作所を創業した豊田佐吉(1867-1930年)、その長男で自動車事業を始めた豊田喜一郎(1894-1952年)の業績をしのぶ。詳しくは後に記す。