直木三十五記念館。井植歳男記念室。

ウメサオタダオ展の余韻み浸りながら関西にいます。
太く長い壮大なる人生。愛国者梅棹忠夫の目。鋭利な着眼、大きい構想、意表を突く作戦。軍事的才能。司馬遼太郎は日本を描いた、宮澤喜一は世界を見た、梅棹忠夫は人類を考えた。

大阪谷町に直木三十五記念館を訪ねる。この人の名前をとった直木賞は有名だが、本人がどの様な人かは知られていない。本名は植村宗一。ペンネームは植という字をバラして直木という苗字にして、その三十一だったので、直木三十一。毎年三十二、三十三と増やしていたが、最終的には三十五となった。
この記念館は下町の一角にある小さな建物の二階にあった。気をつけていないととおり過ぎてしまう。この界隈で生まれたという縁を大事にして、有志が努力して街づくりの一環として小さな記念館をつくった。推進している人にもご挨拶。
直木は色々な仕事手を染めるがうまくいかない。映画監督のマキノ省三とも一時に一緒に仕事をしている。
39歳で書いた、南国太平記で流行作家になる。43歳で亡くなるが残した本は多い。

  • 芸術は短く、貧乏は長い
  • 私程度の作品を一日三十枚平均で書けないやうなら、作家になる資格はない。産経2004・10・15

直木は1891年生まれで1934年に亡くなるが、翌年には友人の菊池寛直木賞を制定した。

神戸の垂水にある井植記念館を訪ねる。三洋電機の創業者である井植歳男、祐郎、薫の三兄弟を輩出した井植家の記念館だ。
井植家は淡路島が故郷。歳男は義兄の松下幸之助とソケットをつくる仕事から始めている。終戦後、松下の財閥指定で軍需会社の生産責任者の公職追放で退社し、1946年から新しい事業を構想していく。三洋は、ラジオ、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、扇風機、暖房機と事業を広げ、総合家電メーカーに雄飛していく。
太平洋、大西洋、インド洋の三洋という社名の通り海外展開も活発だった。1960年に制定した社是の三本柱は、人間、技術、サービスである。
井植学校と呼ばれた勉強会からは多くの事業家が出ている。太陽工業の能村龍太郎、ダイエー中内功サントリーの佐冶敬三、ダイキン工業山田稔、、。
記念館の一室が長男の井植歳男記念室。

  • 私は、無である。ハダカである。知恵も、財産も、信用もない。この心境に立って考えれば、おのずと活路が開けてくる。
  • 困難にあわない人生はあり得ない。もしあるとすれば、それは怠けている証拠である。