幕末の絵師・狩野一信「五百羅漢」(江戸東京博物館)


大震災で打撃を受けていた東京江戸博物館が再開し、今は「五百羅漢」展を開催している。
幕末の絵師・狩野一信(1816-1863年)というあまり知られていない画家の百幅の絵が増上寺にあるが、それをすべて公開するという画期的な企画である。この企画は法然(1133-1212年)の没後800年を記念した企画だ。
羅漢は仏教の聖者を指す。江戸時代中期以降に、羅漢信仰のブームがあった。五百羅漢を訪ねると今は亡き人に会えると信じられていた。また羅漢像を制作すると自体が善行になるということで、木像や石像の制作が盛んになった。私の故郷の近くでも羅漢寺があったことを思い出した。
精密な百幅の仏画を一挙にみてその偉業に驚いた。狩野一信は30代半ばで構想し、39歳からこの制作に没頭し、あとわずかで達成という96幅まで描いたところで48歳で没する。鬱病にかかった一信は70幅あたりから加速度的に筆力が衰え、絵が精彩を失っていく。その後は、遺志を引き継いだ妻・妙安と弟子・逸見一純が続けた。

名相、浴室、授戒、布薩、論議、剃度、伏外道、六道・地獄、鬼趣、畜生、人、天、神通、龍、虎、龍供、堂伽藍、七難、震、風、羅殺、悪鬼、刀杖、賊、伽鎖、盗、四州、、、、。

迫力のある、愉快で、恐ろしい、そして精密な絵である。確かにこのプロジェクトを完成することは大いなる偉業であることは間違いない。

三千両(数千万円から一億円程度)に及ぶ費用を出した亮廸は、「日本一の美術」と記している。この二人は本所の五百羅漢寺、鎌倉の円覚寺建長寺、そして光明寺称名寺などを訪ね、羅漢の木像や画像を調査している。そして全百福の前例がないことを確認したかった。一信は羅漢それぞれの名前、得意なこと、成したことを詳しく調べて描いている。

一信は亮廸の支援もあり、39歳からの10年間はほとんど仕事場からは出ないで、この壮大な仕事に邁進する。10年で百福だから、1年で10幅。しかも人の背丈もある。ひと月で1幅でこの精密画を構想し描くということは恐ろしい速度だということが理解できる。

一信より15歳年下の河鍋暁斎(1831-1889年)「その技量にいたりては、多く恐るるに足らず。ただその精力にいたりては、吾ともがらの及ぶ所にあらずとて、常に之を称しき」
高村光雲「画才はむしろありすぎるいふくらいありますが、ただ惜しむらくは人格が貧しい、それで重くは用いられなかったが、腕はなかなかあった」

逸見家伝来資料によると、安政の大地震に関する生々しい記述がある。また、浦賀に来港した黒船のスケッチも残っている。そういう時代に狩野一信は生きたのだ。

この画家は、今から注目度が上がっていくだろう。

 震
 地獄

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午前は、多摩キャンパスで教授会。
午後は、湘南キャンパスで学長講演とインターゼミ。私の担当の「震災と日本再生」チームの方向が決まった。