下北沢の本多劇場で「滝沢家の内乱」を観る

下北沢の本多劇場の「滝沢家の内乱」が今日で千秋楽。この街と本多劇場は25年ぶりだ。その時は風間杜夫が主演だったが、今日も「声の出演」で出ていた。
この出し物は、「南総里見八犬伝」を書いた滝沢馬琴加藤健一)とその息子の嫁・お路の二人が主役で、馬琴の妻・お百はヒステリー、息子の宗泊(風間杜夫)は病弱。馬琴とお路によってこの家は運営されている。
南総里見八犬伝」は、1814年から1841年の28年間にわたって執筆され。全98巻・106冊の大著で、日本古典文学史上最長の小説である。馬琴は日記を書いていた。この日記をもとにしてできた芝居がこの「滝沢家の内乱」だ。馬琴は、大流行作家であると同時に日常生活の煩雑な現実に立ち向かい巧妙に問題を片づけてゆく能力があった。文学と現実の両方をこなす稀有の人であったのだ

380人定員の本多劇場は満員だったのだが、何とか補助席に入れてもらって2時間の舞台を堪能した。馬琴の61歳から75歳までの日記の記述をもとに、その日常を詳しくユーモラスに仕上げた作品。馬琴は67歳の時に右目に異常が起こり、74才では左目もいよいと衰え執筆は不可能となる。この時にお道は口述筆記を申し出る。しかしお路には学問がなく文字を知らない。馬琴は漢字が偏とつくりからできていることから教えながら、両者とも必死の共同作業で1月6日から8月20日までの7か月半を費やして、八犬伝が完成する。パンフレットにあるお路が書いた最初の文字と脱稿したときの最後の文字を比べてみると、まるで別人が書いたようだ。その落差に驚いた。

この芝居の中で、渡辺崋山の名前が何回もでてきた。宗伯の友人であり、また馬琴とも友情がある。崋山は優れた画家であると同時に、優れた人物であることがよくわかる内容になっていた。

馬琴は1767年生まれ。24歳山東京伝に弟子入り。26歳蔦屋重三郎の手代。27歳下駄屋の婿養子。29歳売薬を生業とする。読本「高尾船字文」を出版。40歳「椿説弓張月」など多くの読本を出版、48歳「南総里見八犬伝」に着手。75歳完結。1848年、82歳で没。
28年間かかって完成する歴史的大著の最後のところで目が不自由になるが、お道の代筆でようやく完成するというのは感動的だ。

馬琴はひたすら倹約の日々を送る。当時の江戸の庶民の平均年収は20-30両。馬琴は作家として一番脂がのっていた65歳頃でも稿料は35両程度だった。原稿料の仕組みは詳しくはわからないが、おそらく売上に応じた支払ではなく、原稿は買い取り方式だったのではないか。

また、この芝居をプロデュースし、主役の馬琴を演じた加藤健一にとってもこの作品は100本目という記念すべき芝居である。1980年から2011年までの31年間かかって100本の作品をプロデュースしている。そのリストは壮観だ。その大半はこの下北沢の本多劇場である。
「28年の歳月を掛けて「南総里見八犬伝」を完結させた曲亭馬琴という戯作者と、31年掛けてここまで来た自分を、どこか重ね合わせてこの戯曲を読んでいたのかもしれません」と1949年生まれの加藤健一は書いている。
風間杜夫も加藤と同じ1949生まれ。「共にまだ若造だった。あれから31年、自ら作品に全責任を負って創り続けて100本目とは、、。ただただ、驚愕と尊敬に値する」と書いている。その風間は舞台で落語家役を演じたのを機に落語にも取り組み、噺家としれも注目されているとのことだ。

この芝居を千秋楽の日に、補助席で見ることができたのは幸運だった。

28年かけて100冊の本を上梓した私も、この江戸時代の滝沢馬琴と、同世代の加藤健一の生き方に共感する。九段の寺島文庫ビルから歩いて数分のところに馬琴が硯を洗った井戸の跡が残っている。この芝居でようやく馬琴が身近になった。今度は馬琴の日記を読んでみたい。

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昼食をとった店で虫が鳴いて涼しげだった。ふと見るとiPadが置いてあった。店のおばさんがこれで虫の音を流しているとのことで驚いた。こういう使い方もあるのかと感心。

「滝沢家の内乱」を観た後、井の頭線で二駅先の駒場東大前の日本民芸館を訪問する。「芹沢けい介と柳悦孝展」を観た。これは後日記す。