若山牧水記念館・芹沢光冶良記念館

84才の母親と車で静岡県の旅に出る。東名高速に乗って沼津へ。

若山牧水記念館。生涯で8800 の歌を詠んだ牧水(1885−1927年) は43 才でこの沼津の地で永眠している。
宮崎県生まれ。医師だった父の酒で家運が傾く。延岡で中学まで過ごし、早稲田大学に高等予科から本科英文学科へ進む。
中学5 年の時に使った 牧水 を 生涯名乗る。 中学時代に投稿していた「 文庫」 で同年で筑後北原白秋と知り合い、早稲田で運命的な出会いがあった。
1920年 からの8年間を沼津で過ごすが、1923 年の 関東大震災にも遭っている。
牧水は、同じく歌人の太田喜志子と結婚するのだが、その妻は、次のような歌を詠んでいた。
こころ入れて君が造りし此の家に住みていよいよ名をしたつべしm
若山牧水伝、 を書いた大悟法利雄は、大分県中津の人だった。牧水は 中津の耶馬溪にも一緒に遊んでいる。大悟法はこの記念館の初代館長。
わが椅子はどこにありしや一日だに遂に寄せる思いざ りし館長の椅子
君を慕ひ君を尊ぶ沼津びとのま心凝りしこの記念館

たまたまこの記念館を運営する財団の林理事長から話を聞く機会があった。「 地震日記」 関係の資料などをいただく。

牧水は、一枚三円で色紙を書く資金稼ぎの揮毫旅行を頻繁に行い、それが死期を早めた。

牧水の歌作ノートを見たが、凄まじい推敲のあとがあった。

足音を忍ばせ行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
天地の心あらはにあらはれて輝けるかも富士の高嶺は
しら たまの 歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ
白鳥は哀しからずや空の青海のあおにも染まずただよふ

歌集や評伝などを大量に買い込んだので、後で記述を膨らませたい。

次に、芹沢光治郎記念館に向かう。芹沢は1897年生まれ。家が貧しかった岐路に立った時に援助者が現れている。一高・東大経済を経て、農商務省に入省。29歳で愛知電鉄(後の名鉄)社長の娘・金江と結婚。その年に渡仏。肺結核で療養し帰国。36歳から作家に専心。46歳「巴里に死す」。69歳日本ペンクラブ会長。73歳ノーベル文学賞推薦委員(川端康成の綬章に尽力)、78歳金芝河問題で9年間の日本ペンクラブ会長を辞任。96歳老衰死。
この芹沢館は、駿河銀行井上靖と芹沢の両方を支援していたのだが、芹沢館は沼津市が引き継いで運営している。

夜は、富士市日産自動車の関連企業に勤務している弟と母と三人で北彩という店で水入らずの歓談。

関東大震災と牧水
震災を沼津で出会う。貸家から出て行かざるを得なくなり、結果として自宅を建築せざるを得なくなった。この家を根城に牧水が活動する。借金の返済もあり、牧水は全国の揮毫の旅に出る。そして体を壊す。