「空海と密教美術展」(上野の東京国立博物館平成館)

上野の森は博物館、美術館がいくつもあり、常に第一級の企画が行われており、多くの市民が楽しんでいる。国民の文化教育機関として大きな存在義がある地域だ。
上野の東京国立博物館平成館で開催中の「空海密教美術展」も人が多かった。

額が高く秀でるように大きい。弘法大師像は後に描かれたもの。
空海(774-835年)は、774年に讃岐で生まれる。18歳の時に京の大学で学ぶ。官吏になるための勉強をしっていたが、出世や豊かさを求めることが疎ましくなり出家を望むようになる。周囲の反対を説得するために、24歳のときに「ろうこ指帰」を著す。儒教道教仏教を論じ、仏教がもっとも優れていると結論付けた。25歳で大日経を知る。804年の31歳の時に得度し、遣唐使の留学僧として唐に渡る。高徳名僧を訪ね歩き、青竜寺で師となる密教の恵果に出逢い、その後継者となる。恵果は、「密教は奥深く、文章で表すことは困難であり。かわりに図画をかりて悟らないものに開き示す。種々の姿や印契は、仏の慈悲から出たもので、一目見ただけで成仏できるが、経典などでは密かに略されていて、それが図像では示されている。密教の要はここにあり、伝法も受法もこれを捨ててはありえない。」といい、両界曼荼羅・経典・法具を授けた。留学僧は20年間の滞在が義務付けられていたが、空海は2年で日本に帰る。
空海は812年に胎蔵界金剛界の両部の結縁灌頂を行っているが、そときの参加者名簿の筆頭は天台宗最澄だった。最澄との交流は長く続く。「風信雲書」という書き出しから始まる「風信帖」と名付けられた空海から最澄への手紙も見ることができた。
空海は「御請来目録」で、「密教は奥深く、文章で表すことは困難であるから、かわりに図画をかりて悟らないものに示す」といい、その手段として曼荼羅を位置づけている。
816年 高野山を賜り、翌年開創
823年、東寺を賜る。講堂に大日如来を中央に配置した21体の立体曼荼羅
824年、高雄山寺を賜り、神護寺に。
835年、入定(禅定・瞑想)。死去であるが、空海はまだ高野山で生きていることになっている。
921年、弘法大師を授けられる。

密教は教えを造形で表し、五感で感じることを重視している。それが曼荼羅や、仏像などの美術品になっていく。
胎蔵界曼荼羅は、大日如来の慈悲から全ての仏たちが育まれ出生することを示す。母親の胎内で赤ちゃんが育まれ生まれることにたとえ、胎蔵という言葉を用いている。一人ひとりの悟りが花開く様。
金剛界曼荼羅は、金剛(ダイヤ)のうように堅固な大日如来の智恵の世界とその智恵が作用としていく様を表したもの。
この二つをあわせて両界曼荼羅といい、これが密教の世界観である。

  • 「自然万物、鳥獣草木は仏の言葉。浄土は心の中にある」
  • 「私たちの心の本質こそ仏の心である」

三筆とうたわれた空海の直筆をたくさん見た。1200年前を生きた空海の書いている姿を想像する。長い著作では、気合の入ったところとそうでもないところもわかる。
密教法具のコーナーでは、恵果から授かった法具など見事なものが多い。「密教法具」「錫杖頭(しゃくじょうとう)」「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」などは、国宝だ。

東寺の立体曼荼羅21体のうち、8体の仏像曼荼羅が展示されていた。この仏たちの見事な造形を見ていると思わず拝みたくなるような表情をしている。金剛業菩薩坐像、梵天坐像、帝釈天騎象像、、、。薄暗い中に仏像が配置されあ身近にそれらを堪能できるこの空間では多くの人が感銘と安心を得ている様子がよくわかる。私もその一人だった。

一度、高野山にも出かけたい。