萩原朔太郎展--「詩は何より音楽でなければならない」

世田谷文学館で「萩原朔太郎展」が開催中だ。
生誕125年の記念展、ということは生きていたら人間の限界といわれる125歳。1886年生まれの萩原朔太郎(1866-1942年)は、若くしてこの世を去った石川啄木と同年である。

「詩は言葉以上の言葉である」と代表作「月に吠える」の序で語った朔太郎は、写真、音楽、書物のデザインとマルチアーチストだった。

15歳の時に、「鳳晶子の歌に接してから私は全で熱に犯される人になってしまった。」と述べ、16歳で初めて歌を作っている。
「この時から若きウェルテルの煩ひは作歌によって慰められやうに成った」。

ふらんすに行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。、、

で始まる有名な「旅上」は、萩原朔太郎の作品だったことを知った。

21歳五高(熊本)英文科を落第、22歳六高(岡山)独法科退学、25歳慶応大学予科入学、26歳京都帝大選科受験失敗という経歴をみると、何か世間におさまりきれないものを感じる。

27歳で故郷の前橋に戻って芸術家としての活動を始める。この頃の写真には、ハンサムではるが神経質そうな表情で、トルコ帽をかぶった姿があった。
この地を本拠地として、互いに認め合い生涯の友人となった二つ年下の室生犀星、二つ年上の北原白秋、そして山村暮鳥、日夏などの詩人と交わる。

「詩は何より音楽でなければならない」という朔太郎は、マンドリンを演奏する。前橋で活動したクラブは、群馬交響楽団の前身である。アマチュアカメラマンとしても相当の工夫をする腕前だった。朔太郎の写真の対象は、第一の弟子であった三好達治によれば「要するに、例外なく、その夥しいコレクションは、いづれもごたごたとした人混みの、市井のつまらぬ風景だった」のである。朔太郎は自然の景色には全く興味がなかった。

「抒情詩とアフォリズムとは、私の詩精神の両面であった」
「父は永遠に悲壮である」

31歳で第一詩集「月に吠える」を出版し世に出る。この頃谷崎潤一郎と会う。
33歳で上田稲子と結婚する。この結婚は10年ほど続く。
37歳、関東大震災。親戚を見舞いに上京する。
39歳、上京し、芥川龍之介室生犀星と往来する。中野重治、堀辰夫。
48歳、明治大学文芸科講師
52歳、「日本への回帰」を刊行。この年、大谷美津子と結婚。
54歳、透谷賞を受賞。
56歳、死去。

朔太郎は、書物の装幀とデザインに凝り、自身も手掛けている。「装飾とは内容の映像」という考えの朔太郎は、自身唯一の小説「猫町」のデザインを自著のもっとも気に入っている。煉瓦の壁に「Barber」という文字と「猫の顔」が描かれた面白いデザインである。この本には、「装飾案・萩原朔太郎 画・川上澄生」となっているから、案を自分でデザインし、それを画家に描いてもらったのだろう

第一詩集で代表作なった「月に吠える」でも、独特の幻想的なデザインで、詩と画とが一体となって美しく、書物としても近代詩の世界でも画期的な詩集だった。「美しい詩画集を出したい」と装飾を依頼した恩地孝四郎にあてた書簡でも語っている。恩地と田中恭吉と三人の芸術的共同事業でありたいと願った朔太郎は、「実に私は自分の求めている心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によって一層はっきりと凝視することが出来たのである」と書き記している。

それでは、萩原朔太郎にとって「詩」とは何か。詩の目的は、「感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである」と言っている。

前橋文学館が編集した「萩原朔太郎室生犀星の交流」という小冊子を読むと、二人の飾らない交流がわかる。
「萩原と遊ぶとセンチメンタルといふ言葉を常に新しく感ずるとは不思議なり」(再生)
「犀星といふ男は真に不思議な恵まれた男であり、生まれながら文学の神様に寵愛されたやうな人間である」(朔太郎)

室生犀星は「善良で好人物である正直者はいつも人生で損ばかりしているといふことも、この詩人の生涯を見渡していると判って来るのだ。」と語っている。ここには、神経質で気難しい朔太郎の姿はない。

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この文学館で同時に開催中の「萩原葉子」展を観る。朔太郎と別れた稲子の娘である葉子(1920-2005年)は、30代になって「父・萩原朔太郎」で第8回日本エッセイスト・クラブ賞をとり、「天上の花--三好達治抄」で新潮社文学賞田村俊子賞を受賞している。そして「いら草の家」では女流文学賞をとっている。

この葉子は、父のことを書いたエッセイを読んだ室生犀星から「千枚になるかも知れないが、毎々から事を前の日に決めて、それに一つあての場面と心の急所を抑えてかきなさい」「一生に一篇でも良いではないか。じりじりと書きなさい」と親身のアドバイスを受けて書いた。

葉子は、30代で作家になり、40代でダンス、60代ではオブジェというように活動的な女性だった。
モットーは「出発に年齢はない」

「人生は素面の仮面舞踏会である」という言葉も残している。

「父・萩原朔太郎」を読みたい。