阿波十郎兵衛(坂東十郎兵衛)

徳島の阿波人形浄瑠璃は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
平安時代の大道芸「あやつり人形」が、鎌倉時代の語り物である浄瑠璃と三味線と結びついて「人形芝居」となり、しだいに人形遣い・語り手・三味線弾きが一体となった現在の人形浄瑠璃の形を整えていった。
この人形芝居は、淡路島で開花し、阿波の国守となった蜂須賀公が奨励し徳島で盛んになち、全国に広がっていく。
17世紀後半に、近松門左衛門の名作と竹本義太夫の三味線と出会い、時代物(武士の話)や世話物(庶民の悲劇)など芸術性が高まり、総合芸術としての人形浄瑠璃になっていく。

阿波の人形浄瑠璃は小屋掛け興業形式であったので、明治中期には徳島県内だけで70を超す座敷ができている。農山村では人形浄瑠璃を迎えるために上演舞台をつくった。その数は250棟にも及び大正末まで隆盛を極める。

昭和初期に入って映画の流行とともい衰退するが、戦後復興の気運が出て、1999年に国の重要無形文化財に指定されるに至る。

徳島のお家騒動の物語である人形浄瑠璃の名作「傾城阿波の鳴門」のモデルとなった十郎兵衛の屋敷が「阿波十郎兵衛屋敷」である。

本物の十郎兵衛は、坂東十郎兵衛だ。藍商を営む庄屋の家に生まれた十郎兵衛は、25歳で妻・お弓をめとる。闊達で任侠に富み、人望があった。33歳の時に他国米積入川口裁判改め役という重職を仰せ付けられる。税関長にあたる役柄だ。
阿波藩は、全国一の藍作と少量の麦作と製塩が三大産業であり、米の生産が少なかったため、藩外からの輸入が必要だった。しかし幕府が他国米輸入禁止をしたので、米の密輸入が必要となった。

九州肥後米を密輸入していたが、肥後米一俵と阿波の一俵の差が三升二合あり、これを「洩れ米」として船頭が懐に入れていた。
輸送の途中で肥後米が消失したことがきっかけで船頭を調査したところ、不正が明らかになった。
しかし、藩の密輸入が表沙汰になるのを防ぐため、十郎兵衛善後措置を講じたがうまくいかずに表沙汰となってしまったため、幕府の探索が厳しくなった阿波藩は、罪状を明らかにせずに十郎兵衛を刑に処してしまう。このとき53歳の十郎兵衛は口をつぐんで観念した。犠牲者であったが、藩の礎石ともなった。実在の十郎兵衛は悲劇の主人公として徳島では同情された。

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