「地上最大の手塚治虫」展--17歳の志を実現した大いなる人生

世田谷文学館で「地上最大の手塚治虫」展が開催中だ。
このネーミングは「地上最大のロボット(『鉄腕アトム』)に由来している。
漫画の神様・手塚治虫は1928年(昭和3年)で1989年に亡くなっているから、60歳という若さでこの世から去ったことになる。生きていたらまだ84歳だ。
生涯の作品は700点、原画枚数は15万枚というから、この人が生きていたらどのくらいの仕事をしただろうかと思う。

手塚青年は1945年の春に「桃太郎 海の神兵」というマンガ映画を見て、17歳で志を立てる。
「一生に一度でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」と誓った。敗戦を聞いて「ぼくは、とっさに、こりゃ、もしかしたら漫画家になれるかもしれんぞ、と思った」。
この志を充分に果たした人生だった。

私たちが子供の頃に感動して観ていた「鉄腕アトム」は、1952年から漫画の連載が始まって、その11年後の1963年にフジテレビで放映され、平均30%という高い視聴率を取った。この作品はアメリカでは「アストロ・ボーイ」として放映された。1966年にはプロ野球球団「サンケイアトムズ」のシンボルマークに採用されている。
鉄腕アトムは10万馬力だったのだが、エネルギーは小型原子炉(後に核融合)だった。確かにアトムは、原子だ。そして妹はウランちゃんだった。1957年に東海村原子力の灯がともり、1966年に東海発電所が営業運転を開始している。原子力の平和利用という空気の中で、喝采を得たキャラクターだったのだ。

手塚治虫は、マンガに映画的手法を取り入れた革命児だった。お手本はドイツ映画とフランス映画で、クローズアップ(寄り)とロングショット(引き)などの手法を用いた。1年で365本の映画を観ておりこれが10数年続いた。
「マンガ仲間が、飲んだくれたり、マージャンをやったりするなかでも、ひたすら映画に通い続けた」のだ。

「マンガにはマンガの役割があります。それは世の中の道徳とか観念を引っくり返すことなのです」
「マンガは記号だから、国境を越えられるところがあるのだし、世代も越えられるのだと思います。、、、そういう意味では、マンガは世界の共通言語とも言えるのです」
「マンガのエネルギー。古今未曾有、波乱万丈、驚天動地、抱腹絶倒、荒唐無稽」
「子どもの冒険心、夢見る力、批判力、そういったものをかきたてるものであるとぼくは信じて描いているのです。」
「ぼくには停滞は許されなかった」
「なるべく人のマネをしないように、できるだけじぶんのものをつくるように、つとめてきたんだ」

ファウスト罪と罰などの世界の名作をマンガという手法を通じて描いていった。
その目は、日本にも注がれた。結果として日本近代史を描いたことになる。
幕末を描いた「陽だまりの樹」、明治初期の「シュマリ」、大正の「一輝まんだら」、戦前の「アドルフに告ぐ」、戦後の「椅子」、沖縄返還時代の「MW]。そして日本人を描こうとして1989年から描きはじめた「グリンゴ」。グリンゴはよそ者と言う意味である。

第一部・第二部を何十回も読み返し、子供むけに脚色して描きあげた「ファウスト」。原作者はゲーテ。高名な学者ファウストはあらゆる学問に通じているが満足できずに苦しむ。悪魔メフィストとの契約で「満足」を探す旅に出るという物語だ。

帰ってから、マンガ「ファウスト」を読んだ。
ファウストは最後に言う。「努力することがわしのさがしていた満足じゃった!」
神は、すべて努力なすものをすくいたもう、これがゲーテのメッセージだった。

無免許の医師を描いたブラックジャック
「死ぬまでの人生を医者の立場からサジェスチョンしてくれないかということは、つまり、一種の精神的な援助をしてほしい。それが今後の医者の大きな務めになるのではないか」

手塚治虫の一貫したテーマ「生と死」、その集大成のライフワークが「火の鳥」だ。古代から35世紀の未来までを描いた未完の巨編。これも読まねば。

会場には、手塚ファンの言葉があった。
瀬名秀明

松岡正剛

この企画展には老若男女が静かに展示に見入っていた。手塚治虫の遺した影響力の大きさを感じる時間だった。

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