コレクターとの出会い--駒井哲郎(福原義春)と田嶋宏行(井本幸夫)

駒井哲郎展

駒井哲郎(1920-1976)の銅版画の作品を、慶応幼稚舎の11年後輩である福原義春資生堂名誉会長)が集め始めた作品500点を世田谷美術館が保管している。1990年後半には79点をこの美術館に預かってもらってから福原のコレクターとしての姿勢が明確になり、今日まで500点になった。その企画展が世田谷美術館の改装を機に開かれた。
裕福な家に生まれたが、1923年の関東大震災に遭遇するが危うく難を逃れ一家で日本橋から五反田に転居している。
駒井の経歴をみると、14歳でエッチングを知って、17歳での恩師・恩地孝四郎との出会い、18歳東京美術学校入学、21歳文展初入選、その後多くの賞をとっていき、そして50代で多摩微教授、東京芸大教授に招かれるなど順風満帆だ。こういう画科の人生も珍しいと思いながら絵を見ていると、43歳の交通事故、そして舌癌による56才での死という不幸が襲っている。
多くの画家がそうであるように、長寿を得ているとどのような存在になっただろうかと想像をたくましくする。

「版画はその特質のうちに本質的に時間的、又音楽的要素を含んでいる」

福原義春というコレクターの存在が早過ぎる死で大成を逃した画家の命を甦らせた。

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田嶋宏行記念美術館

世田谷美術館から成城駅に向かって歩いていると、「結工房 田嶋宏行記念美術館」という看板に誘われて入っている。木造の戸建ての小さな美術館だ。普通の民家だ。
田嶋宏行(1911-1997)は日大芸術学部を経て東京美術学校に学んだ版画家だ。経歴には版画の第一人者・永瀬義郎の指導を受けるとある。永瀬の小さな記念館を訪問したことを想い出した。

今も多くの作品が海外の美術館で永久保存されている。

「作品は原点に於いて無為自然からの助けがないと成立しない。そして、英知が作品の個性なのである。」

結工房の井本幸夫というコレクターの存在が、田嶋の版画の命を永らえさせている。
1988年の出会いから10年経って、田嶋の絵を世の中に広めることを申し出る。
「おやりなさい!あなたの自由なやり方で。私のできることは、息をひきとるまで協力しますよ。しかし、今の世の中は荒れています。荒野にぽつんと一人置かれたつもりでおやりなさい!」。
それから2週間後に田嶋は86年の生涯を閉じている。それから8年後に、美術館が完成した。

芸術家は、駒井における福原、田嶋における井本のように自分の作品にほれ込んでいるコレクターとの出会い、そういう運と縁によって、生き続けられるかどうかが決まるようだ。

野村胡堂旧居地

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田嶋宏行記念美術館でもらった「せたがや文化マップ」からまだ訪問していない人物記念館をピックアップしてみた。さすがに文化人の多い世田谷だ。

14世紀、世田谷吉良氏の領地。江戸時代。彦根藩主井伊家の領地。明治以降、私鉄の開通で住宅地に。関東大震災で住宅地化が一層進展。

京王線沿線
 二階堂トク資料展示室(千歳烏山
小田急沿線
 福沢一郎記念館(祖師谷大蔵)
 滝川泰次記念ギャラリー(成城学園
 斎田記念館(世田谷代田)
東急世田谷線
 佐藤記念館(宮の坂
田園都市線
 人見記念館(三軒茶屋
 松本記念音楽迎賓館(用賀)
東急大井線
 村井正誠記念美術館(等々力)
 宮本三郎記念美術館(自由が丘)

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多摩センター「啓文堂」で自著を発見。

今日の収穫。
「俺は、何をしにこの世に生まれて来たのンか、いまだに解っていない男なんや。ほんまや、、。」
 (若き日の司馬遼太郎