「フェルメール 光の王国展」--微分と動的平衡

オスマン帝国の持つ東方貿易の利権に対抗するために、16世紀前半に隆盛を誇ったポルトガル、16世紀広範囲黄金期を迎えたスペインに続いて、17世紀にはオランダが黄金時代を迎える。
連邦共和国であり、またプロテスタント国でもあるオランダは近代の扉を開けた国である。デカルトスピノザらの近代思想、物理・数学・天文学・地理学などの科学技術、商取引・簿記・為替・保険を初めとする資本主義の基本的インフラなどが整った時代でもあった。
芸術面でも実に華やかな時代だった。絵画の面では謎の多いフェルメールがこの時代を生きている。

1632年、ヨハネス・フェルメールはオランダのデルフトに生まれた。そして1675年に43歳の若さでこの世を去っている。
この間、37点の絵を残した。
この画家は、多くのファンを持っている。私のまわりだけでも、寺島さんは盗難にあった作品(ボストンノ「イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にあって1990年に盗難にあった「合奏」か)も含めてほとんどを観ているようだし、樋口裕一さんもかなりの数の絵を観ている。
そのファンの一人が分子生物学者・福岡伸一先生(1959年生れ)だ。「生物と無生物の間」や「動的平衡」などの名著を書いた自然科学の学者で、生命に関して端正でみずみずしい説明で目を開かれる文章を書く。
この福岡先生が4年間の歳月をかけて全世界の点在するフェルメールの作品を訪ねる旅をした。大きな旅だけで5回を数えている。そしてフェルメールとの対話をしながら自らの思索も深めていくのだが、その結果、銀座にフェルメールセンター銀座をオープンすることにまで発展していく。

先日、このセンターで開催されている「フェルメール 光の王国展」を観てきた。
この旅と同じように、全作品の複製画が時代順に並んでいる。解説はiPodを使って小林薫フェルメール自身、その娘役を宮沢りえが担当している。音楽は久石譲
この複製画はほぼ原型と同じ大きさであるが、オリジナル作品のようなオーラを放っているのに驚いた。
現物は時間の経過とともに色や光沢を変化させる。私たちが見ている絵画は画家が描いた当時の絵ではない。特定の場所で、日々降り積もる時間を見に付け絵画は変化していく。その変化を含めて本物になっていく。

しかし、今回の企画では、フェルメールが描いた350年前の作品に迫ろう、再創作にチャレンジしようという壮大な意図が働いていた。ある意味では本物を超える複製画を「創る」ことを目指したのである。それを「re-create」(リ・クリエイト)、再創造と呼んでいる。現物が時間の経過とともに失ったもの、損なわれたものを回復する、そういう中からフェルメールに接近していこいという試みだ。

37作品と一気に時間順に対峙できるこの時間は至福の時間だった。
科学者のような目、天才技術者のような技術、それらを駆使して「時間」を描く能力を身に付けた画家の凄さを堪能したのだが、やはり「真珠の耳飾りの少女」(別名「青いターバンの少女」1655年)が私には一番の印象を与えた。
この少女の遠い目は何をみているのだろうか。

福岡伸一フェルメール 光の王国」(木楽舎)を買って読み、このフェルメールを巡る旅を追想してみた。
フェルメールは動きの時間を止めて、その中に次の動きの予感を封じ込めることができた。それは微分である。動いているもの、移ろいゆくものを、その一瞬だけ、とどめてみたい願望である。それをフェルメールは実現できた。だからフェルメールの絵は止まってはいるが、動いているように見える。ワインを飲み干すその瞬間、振り向いたその瞬間、、、。
また絵の中に境界をつくりそれを溶かす作業をフェルメールは行った。常に部分は入れ替わりながら全体性を保っているのが生命の本質であるという福岡先生のキーワード「動的平衡」を思わせる。環境とのやりとりをしながら生命は維持されている。そのやり取りの速度が遅くなることが老化であり、死である。フェルメールは絵画という芸術を動的なものにすることに成功した。つまり絵画に命を与えたのである。
フェルメールの生きた時代は、「地理学者」や「天文学者」の絵が示すように、世界観が常に刷新された躍動的な時代だった。そ一翼をフェルメールは担ったのだ。

今までのどの美術館よりも、このセンターには興味をそそられる。