那須国造碑。那須与一。祖父が校長をしていた高校を訪問。

那須国造碑。
 多胡碑、多賀城碑、と並ぶ日本三古碑の一つ。紀元700年に書かれた。1692年の発見時、水戸光圀公が塔屋を作りこれが残っている。硬い御影石だったため、彫られた文字が1300年も前にもかかわらず綺麗に読める。郡評論争。書いたのは新羅あたりからの渡来人だろう。日本書紀新羅からの渡来人に下野に田を賜ったとある。

那須与一伝承館。
 1185年2月18日、20歳の那須与一は源平の合戦で平家の舟の扇を射抜く。道の駅に併設されたこの伝承館では、琵琶法師の人形がベンベンベンと琵琶を弾きながら語るという趣向がいい。「風の前の塵に同じ」。射抜いた後、感動した平家の武者が船の上で踊り始めるが、義経は射るように命じこれも命中。激怒した平家が押し寄せ戦闘となった。

大田原高校。
母は関東の出で、私の祖父、1887年生まれの大野清吉は栃木県で旧制中学の校長をしていた。その最後が今は大田原高校となっている大田原中学だ。その高校を母と訪問。寺内校長が事情を話すと快く応じてくれた。「質素堅実」が校訓。校長室には歴代の校長の写真が掲げてある。この中学から中国の青島の日本人中学校の校長に転出、最後はその講堂で修身の授業中に脳溢血で倒れ亡くなる。59歳だった。この講堂にも母と訪ねたことがある。私はこの祖父には会っていない。

真岡高校

  祖父の真岡中学校の校長時代は4年間。ここでも半田校長が親切に対応してくれた。校訓は、「至誠」。記念館となっている校舎、校長室、などを案内してくれた。卒業記念の写真があり中央に座っている。デジカメで貴重な写真を写した。この学校からは大塚商会を創業した大塚実、トモエコーポレーション創業の野澤一郎らがいる。野澤一郎育英会。ボクシングのピストン堀口の写真があったが、この人は教え子だった。堀口はフェザー級の東洋チャンピオン。

(中央、軍人の隣)
歴代校長の机

学校史の「大野清吉校長」の記述を見せてもらった。「昭和初期の校長」の項。着任1年目に「交友会雑誌」第24号の巻頭の「健全な校風を作れ」という文を寄せている。大野清吉校長は、昭和3年4月に烏山中学校長から着任。昭和7年3月に大田原中学校長として転出している。在任4年。この時代は軍国主義の高まりとともに国家の強力な指導のもと忠君愛国の精神が強調され、団体訓練が重視されるようになった。

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 学校は精神上の故郷である。(中略)多くの教師や、多数の同窓と切磋琢磨した学校は、又偉大な感化を吾等に与へ、惹いては生涯吾等の心を支配するに至るのである。
 されば善良なる校風の下に教育された者と、然らざる者とは、其の一生を通じて幸不幸の懸隔は果たしていかばかりであろうか。(中略)故に健全なる校風の確立は、学校関係者の第一の義務であり、且つりそうであらねばならぬ。
 (良き校風の確立のために)更に肝心なのは生徒各自の心掛けである。如何に歴史が燦然と輝いてゐても、如何に教師が諄々とといても(?)、生徒自らに自覚がなく、校風発揚の意志が無かったならば、それは呵惜(あたら)無意義なものとなってしまふのである。然も校風は学校といふ協同生活の所産であるから、生徒各自は一致協力して校風の振興に努力を積まねばならないのである。

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宇都宮護国神社
 宇都宮の護国神社を訪ねたが、目当ての万葉歌碑は見つからなかった。すでに夕暮れの時刻であり、境内を回ったのだが、天皇陛下の歌、軍人の慰霊碑などが並ぶ厳粛な雰囲気だ。目の前が作新学院で母が通り掛かりの女生徒に見つけて送って欲しいと頼む。送ってくればそれはまた面白い。