竹久夢二--「ほんとに人間としての悲しみを知る画かき」

竹久夢二(1884-1934年)は、不思議な魅力に満ちている。
夢二は職人の仕事として蔑まれた図案、デザインの分野に力を発揮した商業デザイナーとして多くの仕事を残している。
1923年に旗上げを計画した「どんたく図案社」は、図案、文案、美術装飾のすべて引き受けようとしていた。ポスター、レッテル、包装、チラシ、カード、新聞・雑誌広告、看板、飾窓、舞台装置などを行うつもりだった。しかしこの計画はこの年の9月1日の関東大震災で挫折する。この震災時には、連日焼跡をスケッチしている。

「芸術は壁に飾るものではなく、人の生活にとり入れてはじめて生きるもの」と考えた夢二は、45歳の時に伊香保の先の榛名山美術研究所を構想する。これは「手による産業」としての工芸運動という壮大なものだった。絵画、木工、陶工、染織など日常生活に必要なものを制作し、美術を生活の中に活かそうとする試みだった。多くの賛同者を得たのだが、突然の外遊と病によって途絶えしまう。

50歳で亡くなった夢二の仕事量も半端なものではない。実に幅広く活躍している。
新聞・雑誌は2,447点。
そのうち表紙を描いたものは394点、口絵を描いたものは319点。
コマ絵、挿絵は5492点。
文章は805篇。詩346編。歌433首。俳句347句。

人形制作にまで手を伸ばした。「雛による展覧会」も開いたが、そのポスターの背景に記した言葉が興味深い。「色彩・線条・交響・立体・平面・時間・詩」、そして「古代・近代・未来を超ゆるもの」とある。夢二の目指したキーワードだろう。

  • 芸術はもう沢山だ。ほんとに人間としての悲しみを知る画かきが出ても好いと思ふ。
  • 絵は、僕の命だもの。

竹久夢二伊香保記念館では本格的なオルゴール演奏を聴かせてくれう。スイス、アメリカ、ドイツ製の本格的な音色である。「埴生の宿」や「庭の千草」などの演奏を聴いたが、これらが夢二の作詞だった。

竹久夢二の絵は、夢二が泊まった会津のホテルでも観たし、蕗谷紅児の展覧会で夢二がサポーとしていた。

榛名山をバックに、赤い着物を着た女性が大きく描かれている「榛名山賦」が強い印象を受けた。

竹久夢二は総合芸術家だった。

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120829

多摩大学では、「現代の志塾」として、“人材”の育成から一歩進んで“人物”(志人材)を育てることに注力し、生涯にわたって「ひとかどの人物」を目指すべく指導している。その最初の4年間が、本学での教育である。」

  • 日経の中澤編集委員から電話で、野田先生の取材の報告があった。非常に面白かったそうだ。どのような記事になるか楽しみだ。