「誰彼もあらず一天自尊の秋」--飯田蛇笏の俳句道

山梨県立文学館で開催中の「没後50年 飯田蛇笏展」を先日訪ねた。
1885年生まれ。早稲田大学在学中に早稲田吟社で活躍。高浜虚子に師事するが,23歳で郷里山梨県境川村に隠棲(いんせい)し、「土の俳人」を志す。

白蛇幻骨、飯田蛇骨、白蛇幻骨などの俳号を使うのだが、最終的に蛇笏を名乗っている。
虚子(1874年生れ)の俳壇復帰とともに句作を再開,「ホトトギス」の中心作家となる。俳誌「雲母」を主宰,山間の地にあって格調のたかい作風を展開した。
昭和37年10月3日死去。77歳。早大中退。本名は武治。別号に山廬(さんろ)。句集に48歳の処女句集「山廬集」、最後の句集「椿花(ちんか)集」など。角川書房が飯田蛇笏賞を創設した。
「俳句道」を提唱し、「吾人はいやしくも俳句道に生涯を賭する決意の下に遅々たる歩みをつづけてきた。世上文学道の何れにも見出し難いところの唯一つの焦茶色の文学道に」(復刊の辞・雲母)と語っている。
「我々の俳句は、皆粒々辛苦の、正しい人間生活から流れ出る結晶であり、指先からペンをかりてほとばしり出る血汐そのものでなければならぬ」(「俳諧道場箴})という文章を読むと、その気概が伝わってくる。
蛇笏の4男・竜太は俳人として蛇笏の遺志を継ぐ。
以上がこの蛇笏という奇妙な俳号を名乗る人物の経歴である。

虚子は、「先ず第一の特色と認むべきことは以上の小説的といふところにある。」「甲州の山廬に戻ってからの句は測測として人に迫る底のものとなった」と蛇笏の句風を書いている。

以下、好きな句をあげる。

もつ花におつる涙や墓まゐり(9歳)
くれなゐのこころの闇の冬日かな

たましひの静かにうつる菊見哉
死火山の膚つめたくて草いちご
炉をひらく火の冷冷と燃えにけり
ふゆ瀧のきけば相つぐこだま哉
桐咲いて多摩の朝焼淡かりき(多摩を詠んでいる)

くろがねの秋の風鈴なりにけり
風さえて宙にまぎるる白梅花
いわし雲大いなる瀬をさかのぼる
山中の蛍を呼びて知己となす

誰彼もあらず一天自尊の秋(77歳)

                                                        • -

今日で10月は終わり。今月は講演が8回と多かった。