「夏目漱石の美術世界」(東京芸大美術館)--文学と美術の融合展

上野。

第42回全国氷彫刻夏季大会に出くわす。

東京芸大アートプラザで正木直彦像。正木記念館は入れない。

第4代美術学校校長。在職は1901年から1932年であり実に31年に及んだ。2代目の岡倉天心と同年の1862年生れ。
小学校教諭から、東大を経て文部省。下村観山の復職を天心に求めたり、天心の銅像を学内に建てたのも正木である。第6代の校長・和田英作は初めての画家であったが、この作家校長の誕生にも正木は帝国美術院長として推薦している。

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東京芸大美術館で「夏目漱石の美術世界」展の最終日を観る。大勢の人が来ており改めて漱石の人気を確認した思いだった。

夏目漱石(1867−1916年)は小説の中に美術作品を多く登場させている。文章表現の中に絵画表現を持ちこんだ稀有な作家だった。
子どもの頃から、水墨画狩野派、丸山派、酒井抱一などの作品に馴染んでいた。
33歳で英国留学を命じられた時も、1900年のパリ万博で美術をじっくりと観賞しちるし、英国でも英文学と英国美術を研究対象とした。
その延長線上に、第6回文展の様子を朝日新聞に書いている。黒田清輝など大御所には厳しい評価もしているが、青木繁坂本繁二郎には高い評価を下している。特に青木繁には天才という賛辞を贈っている。29歳の朝倉文夫が弟をモデルにした「若き日の影」にも好意的な批評を寄せてゐる。
漱石は、美術批評という新ジャンルを開拓した。

漱石の小説の中には、絵画に関する箇所がよく出てくる。「草枕」ではオフィーリア、「それから」には青木繁の「わだつみのいらこの宮」、「行人」では丸山応挙の作品、「三四郎」では「マーメイド」、」「坊ちゃん」ではターナー、「虞美人草」にもあり、漱石の小説に奥行きを与えている。
また、同時代の画家をモデルにした人物も小説の中に登場する。中村不折、浅井忠、黒田清輝、、、。

「三四郎」の中で「森の女」という絵画を見ながら美禰子が「ストレイ・シープ」と口走る光景がある。この作品を小説の中の言葉を手掛かりに描いた作品も展示されていた。黒田清輝の作品を思わせる。

漱石は美術小説を書いた作家ともいえる。

漱石自身も絵筆をとっていて、水彩画の作品は味のあるなかなかのレベルだった。
また、書も見たがとてもうまく、漱石の人格と教養を感じさせる。
しかし原稿用紙に書いた小説の原稿の字はあまりうまいとは言えない。

この展覧会は、漱石の小説の絵画に関する部分を示し、その作品を隣に並べるという趣向であるが、その意図が成功していた。実際の絵画に対する知識や理解がなければ、漱石の小説は堪能はできないのだ。漱石の文学自体が一種の美術館でもある。

企画をした古田亮(東京芸大美術館准教授)は、「漱石の脳内に収蔵されている古今東西の美術作品、そこから一部を取り出して現実の空間に据えたのが、この「夏目漱石の世界」展なのである」と語っている。
小説と絵画のシナジー効果は高い。漱石の新しい読み方を提出しようとする意図は十分に成功している。