「新聞記者 司馬遼太郎」文春文庫)--司馬遼太郎の二足のわらじ時代

産経新聞社「新聞記者・司馬遼太郎」(文春文庫)を読了。

司馬遼太郎が、直木賞を受賞したときの新聞に載せるプロフィールは自分で書いた。こういった例は初めて。
司馬自身が、自分をどうみているかがわかり、そしてユーモアも漂う見事な紹介だ。

「小説より歴史がすき、歴史よりも新聞記者がすき、新聞記者よりもあそぶのがすきという新聞記者歴13年で現在産経新聞(大阪本社)文化部長をしている。

 少年のころから、万里の長城にあくないピストン侵略を加えつづけてついに砂漠の底に没しさった東洋史上のオアシス国家の運命に執ような興味を持っている。もっとも、ロマンを書くより、ロマンを行動しようと思って、外語蒙古語科のころは本気で馬賊になろうと思っていたそうだ。こうした豪放さは、その後もこの作家の血のなかに息づいている異様な主題のひとつだろう。

 仏教的美意識が強く、とくに原始仏教がもっていたダイナミックな空想力と、アクの強い人間探求に執着をもっている。、、「ペルシャの幻術師」(第8回講談社倶楽部賞)、直木賞受賞作の「梟の城」(講談社刊)などの作品のほか「大坂侍」(東方社刊)た「週刊コウロン」連載の「上方武士道」のように江戸時代町人の共和国である「大坂」にすんでいたほんの一つまみの武士の存在におかしみを感じ、かれらが町人に複雑なコンプレックスをいだきつつ市民生活をしたことを支点に、いくつかの人間喜劇も書いている。

 青年のころ司馬遷の「史記」をよんではじめて人生を見たという。ちなみにペンネームの由来は「司馬よりも遼(はるかに遠い)」という所からつけた。ただし司馬遷の悲劇的な運命まではあやかりたくないそうだ。本名福田定一。36歳」

「一日に5時間の読書を日課にしている」(新聞記者時代)
「百科事典を読んでいた。百科事典は戦前のものが断然いい」
「小説を書くのは、自宅に帰って、だいたい夜の11時過ぎからであった。寝床に入り、うつ伏せになって原稿用紙に向かう。3枚から4枚ほど書くと、眠気がさしてきて、ペンを置く。翌朝、目を覚まして読み直す。そこで前夜の原稿に手を入れる。、、」
「ぼくは人間が好きだし、歴史上の人物なら、その完結した人生を見わたせるんだから、どんな角度からも近づける」
「取材とは、ものごとを知りたいということではなくて、自分のイマジネーションに刺激を与えるものである。、、、行くと、何か変なことが起こりますね、心のなかに」。
「新聞記者は観念的な事も含めて広く考え、広く耕す、実にいい仕事です。だから頼まれたわけでもないのに、これだけ、いつも公の事を考えている人種は他にいないのではないか。」
「地名事典を持ち歩く」

司馬遼太郎は、直木賞をとった1年後に産経新聞を退社し、作家生活に入る。新聞記者時代は、司馬遼太郎の孵化期間だった。二足の草鞋の期間の過ごし方も興味深かった。
「おっさん、やっぱり内職はあかんぜ」と悪態をつかれると、「それをいうな。これも勉強だ」と、怒ったようにやり返したそうだ。
この作家の年譜をみると、大正12年生まれだった。ということは私の父と同い年ということだ。1996年に73歳で没している。そういう時代の人の空気はわかる気がする。

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