黒田官兵衛資料館(中津)

1月に開館した中津城黒田官兵衛資料館を訪問。
「中津で天下の夢を見た 黒田官兵衛孝高」がテーマの展示。

九州平定を目指した秀吉は官兵衛を派遣する。
官兵衛は地元の名門豪族宇都宮氏を味方につけるが、秀吉によって豊前12万石を官兵衛が拝領し、宇都宮は四国今治12万石を与え移るように命令を出す。しかし宇都宮は肯んぜず戦となる。この抵抗を両家の婚姻で解消しようという策をもっておびき出し、宇都宮を滅ぼす。宇都宮一族は鎌倉時代からあり、当時は18代鎮房の時代であった。
このとき、家来たちのいた合元寺でも斬り合いがあり、その血しぶきが壁を汚した。何度洗ってもその血が染み出てくるので壁全部を赤く塗った。それ以来、この壁は「赤壁」と呼ばれる。
この経緯を丹念に描いた「鳶の笛」という本を入手した。著者は邪馬台の編集委員でもあった宇都宮靖先生である。

官兵衛は大坂と中津をつなぐリレー式の早船という通信システムで上方の情報をつかむ仕組みを持っていた。
この早船で瀬戸内海を3日で情報は届いた。関ヶ原の戦いも始まりと結果をはやく知って対処できた。
息子の長政に家康につけ、官兵衛は留守部隊を組織し。西軍に味方した大友義統を石原の戦いで破り、小倉、久留米、柳川を一気に落とす。官兵衛の算段は関ヶ原の戦いは長引き、その間に九州を平定し、毛利と組んで中央を制圧しようというものであった。生涯一度の野望であったが、東軍が一日で勝利したため、見果てぬ夢に終わった。

別府大学の豊田寛三学長は「海上交通を重視し、官兵衛は良港を持つ中津に城をつくった」とビデオの中で語っている。
官兵衛初の領国経営である中津には、その志が宿っている、という物語である。

官兵衛は生涯50数度の戦いで一度も破れたことがない。

「戦わずして敵を降伏させる」
「人は殺すよりも使え」
「山ふかく分け入る花のかつ散るりて春の名残りもけふの夕暮」

官兵衛は隠居して如水と名乗った。いくつかその由来の説がある。
「身は褒貶毀誉の間にありといえども心は水の如く清し」から採ったという説おもある。
官兵衛のつかった兜は「合子形兜(ごうすなりかぶと)」はフタ付きの椀の形をしている。
これは妻・光姫の父からの婚約祝いに贈られたものだ。

官兵衛はキリシタンと親交が深く、洗礼名をドン・シオンとしていた。
1598−1599年に、豊前には2000人のキリシタンがいた。
イエズス会のレジデンシア(駐在所)を中津に建てている。

NHK大河ドラマの影響で中津には観光客がずいぶんと増えたとのことで、確かに中津城とその近くにあるこの資料館も人が多かった。

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歩いて中津市図書館を見学。
「郷土コーナー」に、私の本が80冊ほど入っている棚があった。
そして紹介文もあった。
2009年12月に著書71冊を寄贈し、その後も新刊の寄贈が続いていると書いてある。

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街を歩いていると、「大地」と書いた看板が目に入る。
高校の同級の須賀留美子さんの店だ。入ってみると須賀さんと娘さんがいた。
ここで昼食を頂きながら談笑。