伊澤修二。森山松之助。岡本要八郎。児玉源太郎。後藤新平。蒋介石。

ガイドの林さんは英語でタイムやニューズウイークを読み、日本語で文芸春秋中央公論を読む人。

台北郊外の芝山公園。
六氏先生の墓。18歳から39歳までの教育者は危険を承知しながら土匪の攻撃を避けずに死亡。芝山厳事件。公園で会った80代の老人は涙を浮かべて偉い人たちだと力説。教育のために命を犠牲にした。何度も大和魂という言葉を口にした。70年前には日本人になろうとした。教育の力は大きいと力説。国民党時代はこういう経緯を知っている人たちが墓を隠していた。1898年以降、2月1日を六氏例祭日として偲んでいる。

而農閲覧室。伊澤修二。台湾教育的創始者という解説。台湾総督府首任学務部長。日本語教育と日本人同化に功績。立派な風貌。
台湾の人口は2300万人で訪日は260万人。
明石元二郎総督の墓もあるとのこと。現地人が守った。現在は非公開。
馬英九の評判は極めて悪い。経済もダメ。心が狭く人を使わない。徴兵制は先送り。ディープブルー(本当の保守派)は心配している。
民進党の女性トップは英語がうまい。
日本への片思い。日本への高い評価。韓国へのライバル意識。
この公園の周りのマンホールには「○○芝山」という文字の入ったフタがそろっている。
客家音楽センター。
http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20140519

台湾での教育に絶大な実績をあげた伊沢修二(1851-1917年)という人物の伝記を読み終わった。
伊沢修二 (人物叢書)。

伊沢は明治初年の「師範教育、音楽教育、体操教育、聾唖教育、植民教育、国家教育、吃音矯正等」、各種教育事業のすべての単独で創立したか、深く関係しているという、独創的な教育実践家であった。
台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。
東京高等師範学校校長。体操伝習所主幹。東京音楽学校初代校長。文部省編纂局長。東京聾唖学校校長。国家教育社社長。台湾総督府民政局学務部長。貴族院議員。楽石社社長。
こういう経歴をあげてみると、一人のとは思えないほどの領域で創業にあたったことに驚きを覚える。
信州高遠藩の下級武士の家に生まれた伊沢は出郷にあたって「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」と志を父に向かって述べている。
15年間にわたって師範教育の開拓者であり、ブルドーザーであった伊沢は、師範教育の目的を知識の獲得と知識の伝達にあると考えて、組織を改変している。
「智戦力闘の処世に要用なる、あたかも車の両輪の如く」不可欠であり、体育は「全国の元気を振作せんことをこいねが」い、体操伝習所を設立した。
音楽教育の面では、「君が代」、蛍の光」、「蝶々」などの唱歌を定めた。「てふてふ、菜のはなにとまれ、、、」で始まる「蝶々」については歌詞にも関与している。音楽は児童の身体の健康と徳育上の効果が大きいことを強調し、音楽教育を独力でもって設計し、構築した。
31歳で文部省に戻った伊沢は森有礼大臣のもとで標準的な教科書の編纂にあたる。
聾唖教育に関与した伊沢は、研究を重ね、聾唖者の矯正に成功し、神業と言われる。
文部省内の意見不統一を公開の席であばいたという理由で非職となった伊沢は、国家教育者で時流をつくっていく。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」とした。
清国から割譲された台湾において伊沢は「外形を征服すると同時に、別に其精神を征服し、、、、日本化せしめるべからず」とし、国家教育を輸出する。台湾における教育は日本語によっておこなうという基本原則を採用した。台湾の日本化は、「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命我見お仕事であった。
貴族院議員になった伊沢は、67歳で没するまで20年間を廟議の人として過ごす。学制研究会を組織し、清国賠償金から教育費として1千万円を獲得する。
伊沢は再び東京高師の勅任校長となるが、激務の中で病に倒れ、やむなく辞職する。時に50歳。
「凡そ天地間に無用の者を助けて置く理由は無い。、、然らば生きてをるといふには其れだけ任務、則ち大命といふものがある筈である。、、唯此大命に従って生活すべし」として伊沢は信仰の人となった。
その伊沢は吃音矯正事業に取り組み楽石社を設立する。没した翌年に開かれた創立15周年記念会では、矯正者総数は5367名に及んだと報告されている。中国での事業も成功し、「神か仙かほとんど人に非ず」とまで激賞された。
強靭な体力、不屈の意志、異常な才幹、緻密な頭脳の独創の人であった。
台湾総督をつとめた弟の多喜男は「精力絶倫の兄は、ほとんだ3−4時間しか睡眠をとらず、次から次へと前人未到の境地を切り拓いて行った」とその超人ぶりを語っている。
67歳で没した伊沢の葬儀には2000人の会葬者があった。
教育に関するパイオニアではあったが、性格が強く、対立を起こし、途中で後任に仕事を託し、自らは新しい課題に挑戦していった。後に大臣にも大学総長にもならなかったのは性格の故だと記されている。

水道水博物館。イギリス人のブルトン教授。マラリヤなどの伝染病は水が原因。水源を探り電気を用いてきれいな水を初めてつくった。ブルトン先生はマラリヤで日本で死亡。弟子の浜野先生が継いだ。
森山松之助。1869-1949。80歳。水道施設を設計、建設。1908年完工。この人は台湾総督府など主な施設をほとんど手がけた人。東京帝大工科大学造家学科。1907年には東京勧業博覧会会館も設計。1907年ー1921年在台湾。この博物館の建物は台湾初の鉄筋コンクリート製。アワビの模様の紋章。
日本は今日の台湾にいたるインフラを造った。ダム、水、病院、教育、、、。

ニニ八和平公園。陳水扁の書。国民党が2万人を虐殺。
国立台湾博物館。
岡本要八郎。1876-1960。台湾鉱物研究の先駆者。九州大学。博物館の鉱物室創立に関与。最重要コレクション。北投石の発見。
児玉源太郎後藤新平紀年館からこの博物館は始まった。児玉が亡くなり、後藤が満鉄総裁に転任する送別会で記念館をつくることが決まった。100周年にあたって2人の像を展示。
川上瀧弥。1908ー1915。台湾植物のパイオニア。初代館長。開館翌日に殉職。
明石元二郎総督は福岡で死去。「台湾に埋めてくれ」。
阿美族(アミゾク)14族ある台湾の種族では14万人と最大。この族には4つの生命段階。少年期は14歳以下。青年期は15-25歳。中年期26-42歳。老年期43歳以降。
展示に「Head hunting」とあった。まさに首狩りの意味だった。そういう風習が台湾にはあった。

総督府には入れなかった。学生デモの突入に備えて鉄条網をはってあった。

中正紀念堂蒋介石。1887年生まれ。89歳で没。6メートルの巨大な像は孫文像よりも大きい。巨大な空間。天人合一。倫理、民主、科学。優柔不断、部下に仕事を任せられなかった。蒋介石日記。商震は安田先生の父上。毛沢東はもう一つの天をつくるといった。1940年代に毛沢東を殺すチャンスはあったのだが、蒋介石は躊躇した。
宋美齢。1897年生まれ。ボランティアは「志工」という漢字をあてていた。記念館の書店に「九型人格」というエニアグラムの本を売っていて驚いた。

中山公園。国立国父紀念館。孫文。1866年生まれ。駆除韃虜から五族共和へ。17年間で10回の武装蜂起に失敗。書「大道之行天下為公」。

誠品書店。一番大きい書店。少年H、村上春樹村上龍。半藤の昭和史。大前研一。富坂聡の地下経済北野武の馬鹿野郎。私の名前をひくと5冊の翻訳本が出てきた。ベストセラーのコーナーでは、東野圭吾の夢幻花、解憂雑貨店。西内啓の統計学など。

行天宮。物凄い人出。関羽、、。商売へのご利益。道教仏教儒教
導師、老師、大師。

台湾師範大学に留学中のゼミ生の斎藤淳君と食事。森山松之助。

CCTV4。中国テレビ。
日中戦闘機30m接近。どうして日本は事故を恐れないのか。使用済み核燃料の申告漏れ。これで5500発の核をつくれる。日本は何を意図しているのか。日本の武器輸出解禁。自衛隊の演習の映像。日本オーストラリアの共同軍事演習。日本の国会で公明党が政府支持。中国ともめているベトナムにも武器輸出可能。米日同盟は中国に対抗するのか。日本の陸上自衛隊が太平洋演習に参加。
以上のような識者を招いての番組が毎日流れている。国際世論に大きな影響。
日本はNHKのBS放送や番組を流しているがドラマやドキュメンタリー中心で政治的な情報はまったくない。