電子書籍「図解仕事人」(光文社新書)。「朝鮮通信使の旅日記」

2001年12月に出した「図解仕事人」(光文社新書)が電子書籍で7月11日に出版された。

図解仕事人 (光文社新書)

図解仕事人 (光文社新書)

ビジネスマン時代に「図解」という武器で仕事をこなした歴史を「図解仕事人」の誕生というという視点で振り返った本だ。
凡才が仕事師に変わっていく過程を描いた「この本が好き」という人もいる。
2002年にベストセラーになった「図で考える人は仕事ができる」(日経)へつながる、私にとっては思い入れのある本である。

以下、オビ「図解すれば、どんな相手もわかってくれた! 入社試験成績150人中138位――自他ともに認める“凡才ビジネスマン”が“仕事師”の評価をうけた技術を一挙公開。 」

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朝鮮通信使の旅日記--ソウルから江戸「誠信の道」を訊ねて」(辛基秀)を読了。

江戸時代260年を通じて、1429年を最初に12回の朝鮮通信使という外交使節が日本を訪れている。
この使節団は楽隊や儒者文人、曲馬師、絵師、子童などを含んだ毎回500人規模の壮大な使節団だった。
出発地点のソウルから江戸までは1年の長旅であったから、途中多くのその時代の文人や庶民との交流があった。
好奇心旺盛な日本人は宿舎にむらがった。その旅のエピソードが興味深い。

江戸幕府は朝鮮王朝と琉球王朝を「通信の国」とし、オランダと清を「通商の国」と記している。
オランダ商館長の江戸参府、琉球使節団の江戸参府もあったが、もっとも大規模だったのがこの朝鮮通信使だった。

1回から3階までが国交回復期、8階までをあらたな通交関係の確立期、11回までを恒例遵守の安定期、12回以降を衰退期とみなす説をとっている。

第9回に真文役として活躍した雨森芳洲は、「誠信の外交」を「誠信と申候は実意と申事にて、互いに欺かず争わず真実を以て交り候を誠信と申候」と力説している。雨森芳洲は釜山の倭館(10万坪)で36歳から命を5年縮めるおもいで3年間朝鮮語を学び、日本人として初めての日朝会話集「交隣須知」を著した。

田能村竹田。狩野探信。菅茶山。与謝蕪村葛飾北斎。英一蝶。鳥居清信。喜多川歌麿
森鴎外「佐橋甚五郎」(岩波文庫)。

上関

  • 一般の漁民や町人も熱狂的に朝鮮人の書を求めた。この書を得ておけば何事でも願い事がすべて成就すると信じていた。

牛深

  • 儒者文人、医師たちとの夜を徹した交歓。食事もとれず、疲労困憊して「文字の厄」だとシン(申)ユハンは述べた。筆談で支分を唱酬するなど夜のふけるのを知らなかった。「群倭(日本人の群集)が雲の如く集まった」。

大坂

  • 大坂は文を求める者が諸地方に倍してはけしく、あるときは鶏鳴のときにいたっても寝られず(シンユハン「海遊録」(平凡社東洋文庫))

名古屋

  • 詩文の唱酬、書画の揮毫を求めてやってくる日本人のために混雑し、通信使の文人たちは一睡もできず、筆を置く暇もない有様であった。

江戸

  • 見物する男女が纏塞充溢して、、一寸の空隙もない。
  • オランダ人医師ケンペル「わが一行のことは、彼らの好奇心をそそるには、あまりに微々たる存在であったためだろう」と記しているのと比較すると熱狂ぶりがわかる。
  • 江戸市中の道路は見物客で埋まり、塀を築いたようだ。
  • 行列が通り過ぎるのに約5時間かかった。

通信の国との通信には、「信(よしみ)を通じて、交わる」という深い意味がある。

滋賀県伊香保高月町雨森:東アジア交流ハウス雨森芳洲庵。
広島県安芸郡下蒲刈町朝鮮通信使資料館(御馳走一番館)
岡山件牛深:海遊文化館。
対馬対馬歴史民俗資料館。

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ワールドカップブラジル大会:ドイツ優勝、アルゼンチン準優勝。