先日会った麻生晴一郎さんは、どこに住んでいるんですかという私の問いに、ごく自然に「東アジアに住んでいます」と答えた。その麻生さんの著作を2冊読んでみた。「反日、暴動、バブル---新聞・テレビが報じない中国」(光文社新書)は、実に興味深い本だった。
反日、暴動、バブル?新聞・テレビが報じない中国? (光文社新書)
- 作者: 麻生晴一郎
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2014/03/14
- メディア: Kindle版
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体制からはみ出しているアーチスト、サークルやサロンで語り合う人々、ロック村の様子、人権弁護士の活躍、四川大地震で登場したボランティア、農村を作りかえようとするNGO、、など市民とでも呼ぶべき人々が様々なテーマで台頭している様子がみえてくる。
「本当に愛国運動を展開するのだっだら、なぜ学生だけでなくわれわれ庶民も仲間に加えないんだ」という庶民の声(北京芸術村 抵抗と自由の日々。1999年)、そして本書の指摘にあるように、日本による戦争犠牲者とはまったく関係のない反日運動でしかない、など中国の動きは既成概念では理解できない。
全体をつかもうとする目ではなく、ミクロの動きに身を投じ、それを丁寧に積み重ねていこうという方法論は興味深い。そして彼の描く中国像はメディアにではお目にかかれないリアルな中国像である。
最後の方で、「反日」の本当のメッセージは「民を見つめろ」だ、という彼の指摘には納得した。
以下、「中国への接近の方法論」と「みえてきた中国の本質」という視点から大事なところをピックアップ。
中国取材の方法論
- 新しい出来事に正面からあたり、これを軸として可能な限り「中国」像を修正していく。
- 中国において少しづつ台頭してきた新しい現象や人と共に歩もうとすることが必要
- 中国を知ることは仮説(予想)--違和感(現実)――新たな仮説づくり(修正した予想)の連鎖。
- 探し始めると対象が自然に見つかっていくのが中国取材。
- 取材中はノートを片手に一語も漏らさぬ気持ちで相手の話を書き写す。
- 中国で人や集団を出来事に出会うためには「探す」ことが大切である。そのためには友人・知人を数多く作り、その上で今自分が差亜gしていることをことあるごとに話す。
- フリーのライターとして活動する上で、あらかじめ出版社に企画を通して取材することを原則として行わない。、、、闇の記者で、、闇の存在である辺縁を取材しよう。
- 対象と出会うためには、会うよりも先に出会いたいと思わなければならない。探すことは疑問から始まる。
- 一部分にすぎないのではなくて、一部分でありうるということなのではないのか。一部分であることは、特定の立ち位置を持った主体だということである。
- 広い視野を持ちつつも、あえてその中の一部分に収まろうとする態度である。それが結局、中国と関わるということなのではないか、、。
- サロンを通じて、人権や環境などいろんな分野で活躍する民間人と出会うことができる。政府を通じては会うことができない、、。
- 繰り返し訪ね、新たな出来事に出会うたびに過去を振り返ることで、理解が深まってくる。
- 常に一つの態度を持つようにしなければ相手の言い分に引っ張られて頭がこんがらがってしまい、相手にされなくなる。
- 情報がきわめて不透明な中で統計や客観的論証にこだわりすぎることは、ともすれば誰も触れたがらぬ闇を膨らませていくことに「なりかねない。
- 中国と交流する上では、党も含めて無数に存在する行動主体のいずれかに身を寄せ、それらと自覚的に交流をしていきながら中国を見ていくことが必要
- 漠然と中国を相手にするのでは、中国のいかなる価値観とも触れ得ない。、、、立ち位置の設定の必要性である。
- 中国の何かを好きになること。全体に目を配りつつも、あえてその中の一部分に身を投じ、一部分たりうることから社会に働きかけようとすること。
- 大切なのは小さな価値を突きつめること。、、、少数との絆に立って日中関係の世論に働きかけ、別の絆との連帯を探ること。その相吾が真の民間交流に違いない。、、、壮大なテーマは卑小な一つ一つを包括するのではなく、ともすれば壮大であるがゆえに卑小な一つ一つにすらなりえない。したがって、卑小な一つ一つの挿話がいつまで経っても増えないのである。
- 認識とは、いくつもの事実を経ながら一枚一枚とベールをはいでいかなくては到達しない。
中国像
- 人民とは異なる種族の人たち。自由業、経営者、ホワイトカラーや、あるいは職種にかかわらず多くの若年層が中心であるこうした人たちのことを、本書では市民と呼ぶことにする。
- 「でも日本が好きか嫌いかと言われれば、個人的にはまあまあだ」、、、つまり、彼らの行為は、日本への理解・感情を超えた何ものかだったのである。
- デモをすることが楽しい、といった雰囲気があちこちから出ていた。、、、反日というよりはノリとでもいうべきものだろう。
- 日本の民間と中国の政府・人民の交流、すなわち一方通行の民間外交であったと言ってよく、国交のなかった日本の草の根に親中派を築く狙いがあった-愛国教育が「反日」を生み出したかというと、まったく影響がないわけではないにせよ、ストレートには結びつけにくい
- 「愛国教育、そんなこと関係あるものか。ぼくは学校を出てからネットで日本のことを知ったのだ」。
- 「反日」の前後の北京で頻繁に聞かれたのは、日本批判でなく中国批判だった。
- 愛国教育が大々的に行われたとしても、その一方でもっと多様な日本情報が流布されていたとしたら、、、、「反日」はもう少し違った形になっていたはずだ。
- 若手の有名作家・余傑は「多くの人が不満を持つ中で合法的にそれを爆発させる対象が日本しかなかった」
- かつては今ほど民間人が権利を主張することはなかった。、、中国のある種の発展を示すものに違いない。
- 21世紀に入って台頭してきた権利・自由・平等を求める新しい民間の動きは、、、民主化と言うよりは民間化、市民社会化と言うべきかもしれない。
- 「政府ができないことは私たちでやっていくしかない」、、、政府の力を見限っている点において、官方に対する醒めた市民感覚にきわめて近い意識だ。」
- 少数派とは一党独裁に収まりきれない存在のことであり、人口が少ないことを意味しない。
- 今の中国で確かに市民と呼びうる新しい民間勢力が台頭し、自由に物を言い始め、保身よりも民主や公益を大切にする人が出てきている
- 「反日」の本当のメッセージは「民を見つめろ」だと、ぼくはいま考えている。
- 作者: 麻生晴一郎
- 出版社/メーカー: 社会評論社
- 発売日: 1999/08
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