田中康二「本居宣長」(中公新書)を読了。

田中康二「本居宣長」(中公新書)を読了。

本居宣長 (中公新書)

本居宣長 (中公新書)

江戸中期に生きた国学の大成者・本居宣長(1730-1801年)は72年の生涯を太くそして長く生きた。
この本では20歳代を学問の出発、30歳代を人生の転機、40歳代を自省の歳月、50歳代を論争の季節、60歳代を学問の完成、70歳代を鈴屋の行方とし、それぞれを章にあてている。

神学という道である古道学を学ぼうとする人は、漢意(からごころ)儒意による汚れを洗い落として大和魂を堅固にすることが肝要であると述べている。仏教儒教が日本をダメにしたという没落史観である。儒教仏教が入ってくる前の日本を取り戻すために、記紀、とりわけ古事記聖典としたのである。
そして国学を志す者は歌を詠み、歌書を研究すべきとする。詠歌と歌学の両立が必要である。万葉集で古代人の心を知り、古代の道を知る。

20代の5年半の京都留学では、本来の医学修業に加え、
師の掘景山を通じて国学の始祖・契沖の書に親しむ。契沖学は文証という証拠を重視する文献実証主義を学んだ。
歌は二条派歌学を体得した。

有名な「「松坂の一夜」で宣長は開眼する。賀茂真淵67歳、本居宣長34歳で、実に33歳の年齢差であった。この後の書状による質疑応答は真淵が亡くなるまで6年に及んだのである。

宣長の代表作の「古事記伝」は30有余年を費やした大著である。
これは古事記を忠実に訓読する作業ではなかった。古事記の翻訳される前の口承で伝わっていた原・古事記を復元する作業だった。それは失われた大和言葉を取り戻すための膨大な作作業の連続だったのだ。

物のあはれ、とは五感で感じ、物事の本質を体得するということである。仏教の因果応報説、儒教の勧善懲悪説とは違う。これが日本の国柄なのである。源氏物語などの物語は、物のあはれを知るために書かれたと宣長はいう。歌を詠むのも物のあはれを知るためだ。

日本の神の道は、老荘思想の天地自然の道でもなく、儒教の聖人の道でもない。連綿と続いてきた噛みながらの道である。

30歳。
 もろこしの人に見せばやひの本の花のさかりのもよしのの山
44歳の自画像。
 めずらしきこまもろこしのはなよりもあかぬいろかは桜なりけり
61歳の自画像。
 しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花


宣長は39歳の処女作以来、旺盛な仕事量であった。研究成果の公刊という視点でみると60歳代がピークであった。生前の刊行の半数が60歳代であった。
1798年の69歳で「古事記伝」を完成させた。松坂の一夜から35年、初稿を仕上げた年から32年という歳月がかかっている。
6月に最終巻の清書が完成し、9月に「古事記伝」終業慶賀の月見会が鈴屋で盛大に行われている。この「古事記伝」のすべて44巻が刊行されたのは1822年であり、没後20年以上が経っていた。

70代に入って宣長は死に支度を始めて、72歳で没する。起承転結のある見事な人生だと感服する。天寿を全うしたのだ。

江戸時代の正学であった儒教儒者に「よる拝外思想から、宣長の日本中心の排外思想へのコペルニクス的転回は、明治維新の原動力になっていく。

141207

増田先生の「ビジネスICTと社会シミュレーション」の模擬講義。
モデル化とは単純化、そして複雑にしていく。本質。仮説。鳥瞰。歩行者のシミュレーション。遊園地。鎌倉の津波と人流。終了後、感想を伝える。

押鐘課長による父母説明。

ラウンジで担当者による総括会

小林入試委員長から報告を聞く。

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終了後、ラウンジにて。

  • バートル先生:中国の大学との協定
  • 大森映子先生:授業
  • 大森拓哉先生:人事案件の相談。
  • 志賀先生に電話。