辰野金吾--俺は一生懸命やったがダメだったなあ

このたび建築当初の姿に復元された東京駅が代表作の辰野金吾(1854−1919年の建築作品は今でも目にすることができる。
建築という仕事は後世に影響を与える仕事だ。

日本銀行本店、京都支店、小樽支店、大阪支店を始め、第一銀行、森岡銀行、朝鮮銀行、百三十八銀行、山口銀行、加島銀行など金融機関の建物っも多い。
いずれもルネサンス系に辰野独特の手法を加えた作品が多く、辰野式と呼ばれている。赤レンガに白色のストライプが入り、賑やかなスカイラインが特徴だ、
工学寮の試験で官費入寮生に漏れ、二度目で受かった31人中の最下位だった。この辰野が後に造家学を首席で卒業する。刻苦勉励の人であった。

辰野の師匠は、鹿鳴館など名建築を残した工部大学校のコンドルとイギリスへの官費留学中に師事したバージェスだった。
18世紀から19世紀かけて美術家や建築家をはじめ多くの人たちがヨーロッパ各地を数か月から数年をかけて訪ね見聞を広める旅をした。それはグランド・ツアーと呼ばれている。辰野も2年間のイギリス滞在を終えて、1年間のフランス・イタリアへのグランド・ツアーを試みている。旅をすることによって教養を積むという考え方はこのグランド・ツアーに由来する。

コンドルの後任として工部大学校教授となった辰野は日本の建築学に次の3つのオリジナルな視点を持ち込んでいる。
美術建築の概念。日本建築学の研究。耐震建築学の創始。つまり日本独自の建築学は辰野がつくったといえる。

現在の日本建築学会を立ち上げ、学士だけでなく、技術者や施行業者も加えており、設計者、技術者、施行者の三位一体の建築界を作った。
また建築は民間の事務所で勝負すべきであるという信念で東京と大阪に建築事務所を構えて200棟を超える膨大な辰野式建築で、美術と建築の一体となった世界をを生んでいった。

この人の人生は努力と戦いと挫折のの連続の中で、階段を駆け上がった人生だった。
「俺は頭がよくない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」と語っている。
最初は平凡だが、じわじわと追い越していくというタイプで、工部大学校の造家学科を卒業するときには首席になっている。

晩年に長男から、本人がつくった多くの建築物の中で気に入った建物を聞かれて、「一つもない。俺は一生懸命やったがダメだったなあ」と語ったという。
辰野金吾の志がいかに高かったかがわかる言葉だ。

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1月30日
本日亡くなった先人の言葉。

  • ガンジー
    • 明日死ぬつもりで生きなさい。永遠に生きるつもりで学びなさい。
    • 自分がやることは何でも取るに足らないことのように見えるかもしれない。しかしながら、それをやることが大切なのだ。
    • 許すことができるのは、強いものだけだ。
    • 私たちは精神の窓をあらゆる方向に開け放たなければいけないが、そこから吹き飛ばされてはならない。
    • よき目的にはよき手段でなければならない。
  • 河上肇:人はパンのみに生きるものに非ず、されどまたパンなくして人は生きるものに非ず
  • 宮本常一:人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ
  • 服部良一:心の中からメロディーをひっぱりだすのがコツ。器用な人はダメ。僕みたいに不器用でなきゃ
  • 加藤寛:どんな仕事もどんな経験でも必ずそこには自分に役立つ勉強が潜んでいる。だから、ただ働きを惜しんではいけない。
  • 河上源一:社長は戦国時代の大名と一緒で、すべて背水の陣でものを考えている。その都度、その都度、私自身、自分の決心に時間をかけたことはない
  • 長谷川町子:常に温かく誠実な一人の女性が、あるとしたら、社会的にどんなに見映えのしない、存在であろうとも、その人こそ、世の中を善くする、大きな原動力であると思います。
  • 赤崎勇:自分のやりたいことをやるのが一番だと思う
  • 新浪剛史:「王」が天守閣にこもったままでは、その下にいる将軍たちが動くことはありません。

本日生まれた先人の言葉。

  • フランクリン・ルーズベルト:軽い荷物にしてほしいと願ってはいけない。強い背中にしてほしいと願わなくてはならない。
  • 鳥井信治郎:やってみなはれ、やらなわからしませんで
  • 北原照久:自分がこれだち思ったことを、一心不乱にやり続ける、これが自分を応援してくれる人に出会ういちばんの近道です。
  • 高見順:生の完全な燃焼が死だ