久留島武彦記念館

久留島記念館。


玖珠郡玖珠町森の記念館が改修中で、仮設展示の図書館に行く、

この町は「童話の里」として売り出そうとしている。

それは童話の神様、日本のアンデルセンと呼ばれている久留島武彦の出身地だからだ。

久留島家は村上水軍の一族で関ヶ原では豊臣家に属したため伊予の所領を奪われ、は来島という姓を久留島に変えた。久留島家は1万2千5の小大名だった。

久留島武彦は1874年生まれ。

母が中津の殿様の奥平家のお姫様だった関係で、中津の殿町小学校をへて、大分中学校に進学する、そこでウェンライト先生と出会い、関西学院に進学し、ウェンライトの書生となる。

久留島は「口演童話」に60年取り組み、全国6000箇所で活動している。日本初の自動演劇団を結成した。

三度の旅行を一緒にした野村徳七(野村証券の創業者)の援助で東京青山で早蕨幼児園を開く。幼児の一人に岡本太郎がいた写真があった。

またイギリスで知ったボーイスカウトの日本での礎を築いている。ボーイスカウトの前身の東京少年団の役員をしている。第二回世界ジャンボリー大会では副団長も務めている。日本ではアンデルセン没50年祭を開催しアンデルセンの存在を広めた。

この人の信念は「継続は力なり」だった。常に志は子供にあった。

継続は勢力なり、だ。

久留島は日本各地に桃太郎像を建てている。北九州の到津遊園にも桃太郎像もその一つだ。
生涯で120の童話を書いた。

1950年5月5日に第一回童話祭を開催し日本一の童話碑を建てた。

「身働かざれば、心働かず」が信条だった。

この町の子供達の自由研究では、代表作のトラの子ウーちゃん、すずむし、などの絵が目に入った。



展示の脇に、小さな座り机が目に入った。この町から遠くない小国町から来ていた北里柴三郎愛用の机だった。ここは北里の母の里だった。北里は4歳から7歳まで園田鷹巣塾で学んだ。藩校終身舎では1年。

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2月6日。
命日。
三原脩 覇権を握ることは難しい。覇権を持続することはさらに難しい。一度失った覇権を奪回することはさらに難しい。

誕生。
レーガン この世の中には2種類の人間しかいない。できる人間と批判する人間だ。