二十四の瞳 映画村 壺井栄文学館

マルキン醤油記念館。
小豆島の名産は醤油である。醤油は麦、大豆これに塩水を加えて醤で発酵させた食品である。中国から渡ってきた技法で奈良時代に発展をした。江戸時代には日本料理が飛躍的に発達をした。その要因は鰹節と醤油の発明にある。小豆島がなぜ醤油の産地となったか。塩の産地、海運業の発達、気候、そして天領であったことが挙げられる。
マルキン醤油株式会社の初代社長木下太は、「意気震天地」、という書を残していた。この記念館はマルキン醤油株式会社の創業80周年の社会事業である。
「やがて時は流れ沈黙する醤は液体の生命を踏む神秘の液体」


タケサン記念館。
「小豆島佃煮の里一徳庵」という名称である。小豆島に佃煮産業を起こした武部吉次は戦後の食糧難の時代に醤油を使った佃煮を思いついた。そしてこの人は医療教育文化福祉にも貢献をした内海町の名誉町民でもある。
小豆島は現在1万5,000トンの佃煮の大産地であり国内のシェアは10パーセントを超えている。

二十四の瞳映画村。壺井栄文学館。

壺井栄は1899年生まれ。樽職人の6番目の子供であった。級長になるなど成績は良かったが一家が破産。15歳で坂出郵便局につとめる。26歳で上京、同郷の壺井繁治と結婚し、世田谷に住んだだ。この時近所に林芙美子平林たい子夫妻がいた。夫はプロレタリア運動に参加する。31歳、宮本百合子、佐田稲子と知り合う。
38歳で、処女作「大根の葉」を発表する。42歳、「暦」で新潮社文芸賞を受ける。以降活発な執筆を展開する。53歳のときに書いた「二十四の瞳」が映画化され栄は国民的な存在になる。57歳、壺井栄作品集25巻。67歳、内海町名誉町民、そして死去。
1992年壺井栄文学館が開館した。

二十四の瞳」は2度映画化されている。最初は高峰秀子主演、2回目は1987年の田中裕子主演の作品である。
「桃栗3年柿八年 柚のおおばか18年」、これが遅咲きの栄の好んだ言葉だそうだ。
亡くなる直前の最後の言葉は「みんな仲良く」だった。
壺井栄は、小説、童話、随筆等、生涯で1,400編の作品を残した。

記念館には夫であった、壺井繁治という詩人の紹介がある。
「石は 億万年を 黙って暮らし続けた。その間に 空は 晴れたり曇ったりした」
もう一人、黒島伝治という小説家の紹介もあった。
「一山こゆればまた一山、一嶺こゆればまた一嶺 限りなき道ぞ楽しき」
「一粒の砂の千分の一の大きさは世界の大きさである」この言葉は黒島の文学碑に刻まれている。

映画村では映画館があり無料で「二十四の瞳」を上映していた。この映画は子供の頃見ているが、戦争反対の作品だったことに驚いた。ひらいたひらいた、7つの子、村の鍛冶屋、荒城の月、仰げば尊し、などの音楽が聞こえている。涙なしには見ることができない名作であった。

壁にメッセージを寄せた著名人の言葉が飾ってあった。
平和主義の結晶のような作品。
日本のサウンドオブミュージック
まさに反戦映画。
今の時代、この映画を観れば大事なことがわかる。
ああ、どれだけの涙を日本人はあなたの映画に涙し、悲しみを癒されたことだろう。
人をつきつめることのない優しさ、曖昧さ、非合理、いたわり、弱さ、涙、嘆き、忍耐、諦めを肯定する力、これは日本人の財産である。

映画村では、巨匠木下恵介展、をやっていた。
「私はこれまで慎ましく生きる庶民の情感を映像を通して描いてきた」
「理屈でいつも忘れちゃうけど、泣いて映画を見た心はいつまでも印象に残るんだと思う。これが映画監督としての社会における義務だと思う」
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2月11日。
本日死亡した人の言葉。

  • 伊能忠敬 いや、私は51歳なったばかりだ。
  • エジソン 私は一日たりと、いわゆる労働などしたことがない。何をやっても楽しくてたまらないから。
  • 小林古径 音のする盆をかくのは大変だ。写実というのも、そこまで行かなければ本当の写実ではない。
  • 折口信夫 汝が千人いくさに立たば学問はここに廃れむ。汝が千人の一人だに生きてしあらば国学はやがて興らむ。

本日誕生した人の言葉。

  • デカルト 難問は分割せよ。
  • 市川房江 運動は事務の堆積なり。