竹内洋「革新幻想の戦後史」(中央公論新社)

竹内洋「革新幻想の戦後史」(中央公論新社)を読了。

546ページの大著。
2011年に出版されたこの労著は第13回読売・吉野作造賞を受賞している。
このところ「戦後70年」に関する本を読んでいるので、読んでみたのだが、素晴らしい内容だった。

1942年生まれの竹内洋は62歳の時に、あるきっかけで「戦後史」に関心を持ち始める。
「自分史としての戦後史」という問題意識で69歳でこの本を完成させている。
物心がついた時からの経験したこと、感じたこと、思ったことの自分に関わることと、当時の社会問題と摺合せながら、戦後史を描こうと考えた。それはリアリティのある戦後史になるはずで、その内容を資料として提出しようという試みである。これが執筆の動機だ。

革新幻想の戦後史

革新幻想の戦後史

「社会科学における研究問題は、私的問題と公的問題の両者、個人生活史と歴史の両者を含み、それらのあいだの微妙な関係を含んで、はじめて正しく定式化される」というアメリカの社会学者ライト・ミルズの「社会学的想像力」にいうとおりである。

竹内は「左派にあらざればインテリにあらず」という空気であった大学キャンパスの中をずっと生きてきた。
その通底するキーワードは「革新」であった。そして戦後を振り返るとそれは幻想であったと結論づける。
この本は「革新幻想」という視点から、戦後史をつづったものになった。まさに時代の空気を描いた書物となっている。

この本を読み終わった今、私もこの本に寄り添って、自分と戦後との微妙な関係を考えてみたいと思う。
私の大学時代の一大トピックスは全共闘を主役とした大学紛争である。日本中を巻き込んだあの紛争は一体何だったのか。
すでにエリトートではなくなりつつあった大衆知識人による大学知識人への怨望であると竹内はみている。

以下、ポイントを抜粋。

  • 憲法九条を支持する「悔恨共同体」を結成する近代知識人と、戦前日本を是とする感情共同体である「無念共同体」との確執。
  • 1955年以降に強まった1990年前後までの第二の戦後は、「花より団子」の時代だった。憲法改正再軍備反対の空気は、現状維持という生活態度としての保守であり、「革新」という衣装をまとった保守であった。
  • 革新派雑誌「世界」、岩波知識人、清水幾太郎日教組平和教育市民派サヨク、永井道雄、日教組を指導する東大教育学部、リベラルだが超俗的な京大教育学部、知識人の文化支配、旭ヶ丘中学事件と北小路昴・北小路敏、唐牛健太郎全学連委員長、西部邁書記長、皇国少年と平和民主少年、福田恒有存の屠蘇の杯批判、進歩的知識人の後裔はテレビのコメンテーター、丸山真男の在家仏教主義、「現代政治の思想と行動」、ノンセクトラジカル、小田実、ベ平和連、全共闘高橋和己、柴田翔、ふつうの知識人、山本義隆松下圭一、石阪洋次郎、大江健三郎進歩主義教育の堕落、「テロルの決算」、「解ってたまるか!」、サルトル、、、。

竹内洋の結論、予期は次の通り。
変幻自在な「幻想としての大衆」という見えない権力の登場。オルテガのいう大衆人の登場。「慢心しきったおぼっちゃま」「喫茶店の会話から得られた結論を実社会に強制する」「日常当面する以上に考えない存在」「テレビ文化人の屹立」、、、。それは想像された多数者による監視社会である。いまの日本は幻想としての大種からの監視による「大衆幻想国家」だ。日本人の宗教や教養だった「日本人らしさ」の霧散のあとに「想像された大衆」が代位する。それは層としての中間インテリや中間エリートを欠いた、劣化した大衆的圧力による。
日本の衰退と没落は、パンとサーカスではなく、「幻想としての大衆」に引きずられれ劣化する大衆社会によって起るるであろう。

以下は、私の自分史とも重なる部分だ。

  • 1968年8月「読売新聞」の学士意識調査。大学生はエリートだと思いますか。「少しは思っている34.1%。思っていない59.3%」(国立大学)。大学生がエリート意識をもてた最後の時期。確かに中途半端な気持ちでいた記憶がある。親の期待と現実のかい離に不満を持っており、自分の行先に不安を感じていた。
  • 季刊・中央公論「経営問題」(1962年)の登場。29歳でロンドン時代に書いた社内レポート「ロンドン空港労務事情」を名古屋大学小池和男教授に送ったところ、中央公論に載せなさいと、この経営問題に紹介されて驚いた。編集長と会って社長から推薦をもらってくれるということになったが、最終的には深田祐介主宰の企業の課長クラスの座談会で紹介してもらった。日本的経営を現場から論じた論文という位置づけだった。足元を研究すると時代にテーマに遭遇するということを知って、それ以来真面目に仕事に取り組む決意をした。
  • 小田実には二度会ったことがある。1978年ロンドン勤務の時代にふらりと現れた。帰国碁、30代のときに知研の関西セミナーで司会を務めたことがある。その講演後に、じっくりと話をしたことがある。「図解」について説明したところ、「それは大変なこっちゃな」と関心を持ってもらった。
  • 会社員や専門職、大学生で総合雑誌の読者であるような「ふつうの知識人」を考えることが日本の知識人の特徴の解き口になるという小田実の指摘。「日本の知識人」。大衆インテリ、中間知識人。知研で有名人の書斎を訪ねたり、インタビューをしたりというプロジェクトを熱心にやっていた30代半ばの頃、「知的実務家」という言葉をつくり、自分も経済の現場で見たことを普遍的な言葉で語りたいと志したことがある。知的実務家は、大衆インテリなどの流れの中にあったということになる。
  • 三島由紀夫の自刃。1970年11月25日。豊饒の海。「日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残る」。三島由紀夫のファンであった私は三島のライフワーク「豊饒の海」四部作を読んでいた。三島事件の衝撃は今でも覚えている。
  • 1969年。大学の33%が授業停止一週間以上の紛争状態になった。私が九大に入学した時は、まず入学試験会場が学士たちに襲われ、予備校で受験ということになった。そして入学式の粉砕を叫ぶ学生たちが入学式会場に乱入した。私は怒りに震えて彼らを追い出す一群の群れの中にいた。5月には全学ストライキに突入、1年間ほとんど授業はなかった。
  • 「自分たちはまもなくサラリーマンになる。しかしその仕事は教授が言う女工たちの労働と大同小異ではないか」。「完全修飾の時代が「精神的には失業者」の時代として意識されていた」(1968年前後)。この感覚はわかる。当時は就職するということは体制に飲まれてしまうことだと思った。就職はしたくはなかったが、大学院に行くほどの勉強もしていないので、やむなく受かった企業に職を得たにすぎない面がある。一種の敗北感を感じていた。
  • ビジネス・インテリ。実務インテリ。1962年が季刊「中央公論別冊「経営問題特集号」。経済の高度成長が旧満州にかわる何十ものフロンティアを国内にもったようなものである。実務インテリ、設計型知識人、現代的知識人。エコノミスト、システム・アナリスト、経営官僚。先に述べたようにせめて「知的実務家」たらんことを目指そうと思って仕事をしていた。
  • 1963年「高校三年生」。青春の大衆化の始まりと共振。舟木一夫のこの曲はよく歌ったが、大学進学者が多くなって青春が大衆化した時期を象徴する歌だったのだ。
  • 1960年代後半は日本社会の転換点。ホワイトカラーと販売・サービス業人口(40%)が農林漁業人口よりはるかに多くなった。私の大学時代は、1969年から1973年であり、まさに日本経済の転換期にあったようだ。
  • 日本的経営ブーム。ロンドン空港労務事情1977-1978年。ロンドン空港勤務時代の20代の後半に日本的経営ブームの先駆けとして社内論文を書き、それが私の原体験となった。
  • 竹内洋との縁。竹内洋は、私の九大探検部時代の先輩である藤原勝紀先生から紹介された。もちろんこの碩学の本は何冊も読んでいたが、京都大学で行われたシンポジウムでご一緒し、親しく話をすう機会があった。当時京大にいた竹内先生に私の人物記念館の旅に興味を持ってい頂いた。その後、野田一夫先生に紹介して欲しいということになって、赤坂で3人で食事をしたことがある。

自分の戦後の足跡を改めて時代との相関の中で整理する必要がある。

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今日の収穫
古川貞二郎:身近な人はいくらか割引き、目の届きにくいところで活躍している人は大きく見えるようにし、バランスのとれた公正な人事を心がけた。組織は人事の善しあしで強くもなり、弱くもなる。

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忌日。

  • 藤原銀次郎:仕事の報酬は仕事である。
  • 川路聖あきら:雪に折るる松となるともものの夫のこのて柏のふたおもてすな
  • マルクス・アウレリウス:戦争とはこれほど不幸なことか。

誕生。

  • 豊臣秀吉:一職を得れば一職、一官を拝すれば一官、心頭を離れず、ひたすらにそれをつとめしのみ、他に出世の秘訣なるものあらず
  • 香川慎司:プレッシャーを受けるのも経験だし、挑戦だと思う。注目されることは成長するための要因でもあるから。
  • ダイムラー:意気地のない人や、なんとかなるさと思って引っ込んでいるような人が、世の中を変えたためしはない。
  • ボビー・ジョーンズ:ゴルフは左手のゲームである
  • 桜田武:先人の踏を求めず、求めしものを求む。