「植草甚一スクラップ・ブック」展--世田谷文学館

行きつけの世田谷文学館で「植草甚一スクラップ・ブック」展が開催されている。

植草甚一(1908-1979)は、映画、ミステリー、モダンジャズ(48歳から)、カウンター・カルチャーなど、団塊世代サブカルチャーの先輩、先生の様な存在だった。1960年代後半から70年代にかけて「植草流」とでも呼ぶべき特異なスタイルを築き活躍した不思議な人だ。この名前は様々な雑誌の中で見た記憶がある。おしゃれで教養の深い饒舌なおじさんという印象を持っているが、この人のことはよく知らなかった。

今回の企画展は植草が経堂に住んでいた縁で、240点のスクラップブック、ノートなど約240点、草稿や原稿50点、日記30点、その他図書・雑誌・写真など総数1200点に及ぶ遺品が世田谷文学館に寄贈された。4万冊の蔵書は古書店が買い取った。
その一部を展示する企画展である。映画、文学、音楽、コラージュ、雑学、ニューヨーク、ライフスタイルに分けてコレクションが展示されている。

まだ東宝で仕事をしていた37歳の時に、「一冊でもよけいに外国の本を読んで、出来るだけ覚書をつくり出来たら、いつかこれを整理して、まとまったものにして残したいのが私の唯一の野心である」と述べた雑学の大家は、有名な東宝争議をきっかけに退社し、映画評論の世界に入っていく。

「ハヤカワポケットミステリー」の編集、「映画旬報」の編集、「スイングジャーナル」でのジャズ連載、テレビ出演などを経て、本格的な単行本「ジャズの前衛と黒人たち」(晶文社)を書いたのは59歳になっていた。その後、1969年の「平凡パンチデラックス」での植草甚一特集、後に雑誌「宝島」になる「ワンダーランド」の責任編集などを手掛けている。
これだけ海外の情報を伝えながら海外には縁がなかった植草は66歳で初めての海外旅行で、ニューヨークに3か月半滞在し、味をしめてその後は毎年のように出かけている。その前に植草は朝日カルチャーセンターで写真を基礎から学んでいる。69歳では、ベストドレッサー賞を受賞、亡くなったのは1979年、71歳だった。

植草の映画評論は、テクニックを重視しディテールに着目するスタイルだった。試写を見ながら「速記帳」に書き込み、それを「試写メモ」に整理し、全体像が固まったら「原稿」にしていく。ペラの小冊子に映画を観ながら、気が付いた点や台詞を書き込み、イラストまでも描いている。
原稿を書くためのスクラップブックにも、黒、青、赤のボールペンで書き込みをしたり、記事を入り込んだりしている。
原稿用紙に書いた文字が素敵だ。
植草甚一コラージュ日記・東京1976」(平凡社)を読むと、独特の文字で毎日の日常が細かく記されている。
同時開催されている「コレクション展 特集 戦後70年と作家たち」の中に、「不老少年座談会」の雑誌記事があった。1976年の「GORO](小学館)だ。そこでは、若者に人気の著名人が集まっていた。紳士・梅田晴夫(55歳)、巨匠・横溝正史(74歳)、識者・会田雄次(60歳)、教祖・植草甚一(68歳)という人たちだ。

楽しい座談会の様子が載ってるのだが、内実はそうでもないらしい。この「コラージュ日記」の6月23日には、この座談会のことが書いてある。「会田さんにホテル(赤坂のホテル・ニュージャパン)のおしえかたが、いい加減だったせいか、だいぶ遅れ、十時まで話が続いた。部屋をかりて座敷でやったが、コーヒーとかさかさのサンドイッチだけお出したのには驚いた。、、、ハッキリあとで文句をつけた。、、とにかくイヤな座談会だった」とある。
この日記は、都市の散歩のお手本だ。どこで何をいくらで買ったか、その内容と道程を細く記してある。
朝の起床時間から始まり、その日の天気などもあり、日常生活の様子が目に見えるようだ。

「生涯の映画ベストテン」がある。
「愚かなる女」「蠱惑の街」「吸血鬼」「三十九夜」(ヒッチコック)「大いなる幻影」(ジャン・ルノワール)「自由を我等に」「歴史は女でつくられる」「戦火の彼方」「地下鉄のザジ」「カサノヴァ」。

  • 無関係な切り抜きをくっつけ、それが別なものに変化していく快感。
  • 表紙をひと目みて感じてしまう本は、たいがい良い本で、これはレコードを買うときにもあてはまる。
  • ぼくは散歩と雑学が好き

植草甚一は、一生勉強を続けた遅咲きの人だ。
48歳からモダンジャズにのめり込み、65歳の初の海外旅行には朝日カルチャーセンターで写真を学ぶ、そして関心がどんどん広がっていく。その成果を若者向けの雑誌で披露していく。
その結果が、雑学の大家としての姿に結実していく。

ぼくは散歩と雑学がすき (ちくま文庫)

ぼくは散歩と雑学がすき (ちくま文庫)

植草甚一コラージュ日記 東京1976 (平凡社ライブラリー)

植草甚一コラージュ日記 東京1976 (平凡社ライブラリー)

いい映画を見に行こう (植草甚一スクラップ・ブック)

いい映画を見に行こう (植草甚一スクラップ・ブック)

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世田谷文学館「コレクシン展 特集・戦後70年と作家たち」。
この文学館は1995年開館、今年は20周年。
世田谷に縁のある作家たち。

「戦中派虫けらに気」の山田不卯太郎。
医学生を目指す山田は、1940年(昭和20年)8月15日の日記。
「炎天、帝国ツイン敵に屈す」
翌16日の日記」
「敵が日本に対し苛烈な政策をとることをむしろ歓迎する。敵が寛大に日本を遇し、平和的に腐敗させかかって来る政策を何よりも怖れる。戦いは終わった。が、この一日の思いを永遠に銘記せよ!」

「人間の条件」「切腹」「東京裁判」の小林正樹監督(1916-1996)。
沖縄の収容所で1年余の強制労働中、恩師の会津八一の学規で救われた。
1・ふかくこの生を愛すべし1・かへりみて己をしるべし 1・学芸を以て性を養ふべsぎ 1・日々新面目あるべし」

梅崎春生(1915-1965)。鹿児島の坊津の特攻隊基地。
「どのみち死ななければならぬなら、私は納得して死にたいのだ。このまま此の島で、此処にいる虫のような男たちと一緒に、捨てられた猫のように死んでいく、それではあまりにも惨めではないか」(小説「桜島」)

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名言の暦

命日

  • 澤田美喜1980:どんな子どもでも、人間として生を受けた以上、立派に育っていかなければなりません。

誕生日

  • ナイチンゲール1820:看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑚を積んでいく必要がある。-
  • 武者小路実篤1885:この道より我を生かす道なし。この道を歩く。
  • 草野心平1903:死んだら死んだで生きていくさ。